1600年10月21日(慶長5年9月15日)

美濃の国不破郡関ヶ原での【天下分け目の戦い】

 

15日の早朝 

前日の雨により発生した濃霧の中で無言の睨み合い

天候が回復した辰の刻(7時から9時頃)

東軍の井伊・松平隊が西軍宇喜多隊に発砲し開戦

徳川家康率いる東軍 石田三成率いる西軍が激突

 

開戦の序盤は

東軍より勢力が上回り準備万端だった西軍が有利でしたが 

先ず 小早川隊が反旗をひるがえし 同調した他の隊と共に

大谷隊を攻撃 大谷隊敗走後 小西・宇喜多も敗走

 

 

【南宮山】に布陣していた西軍の軍勢は 

(長束正家・毛利秀元・安国寺恵瓊(えけい)・吉川広家)

動かないまま戦いは 6時間ほどで終息となり

石田隊も挽回の余地なく敗走となります。

 

9月15日 関ヶ原の戦いに敗れた三成は伊吹山を越えて

近江に入り母親の生まれた地・古橋村(現・木之本町)に向かいます。

古橋村に在る法華寺・頭塔である三珠院の善説に匿われますが

やがて囚われの身となります。

1600年11月6日(慶長5年10月1日)

六条河原で処刑され 首は三条河原に晒された後

大徳寺の三玄院に葬られます 41歳でした。

 

ざっと 経過をおさらいして …

観光交流館でマップを貰い 関ヶ原駅からスタートです。

 

 

 

30分ほど   あし   あし   あし  

関ヶ原駅の戦いで最も激戦地だった地・決戦地

後方には 石田三成陣跡が見えています。

 

 

 

この方

三成さまの甲冑を所望されたそうですが 予約が入っていて

借りられず 家康さまです。

因みに 陣羽織は自前だそうです。

 

石田三成の兜は

 

www.touken-world.jp からの三成 兜   画像は拝借です

乱髪天衝脇立兜(らんぱつてんつきわきだてかぶと)

 

旗印

貼り付けた画像_2016_03_16_12_42 上→左→右と読みます

大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)

1人が万人のために 万人が1人のために力を尽くせば天下が安泰になる

 

家紋

貼り付けた画像_2016_03_16_12_43 九曜紋家

 

標高・200mの笹尾山 幟旗が立つところが 石田三成陣跡 

麓(右の幟旗)には 三成に過ぎたるもの一つ 軍略家の島左近陣跡

 

 

合戦時に敵の攻撃からの防御として使われた馬防柵が復元されています。

 

       

 

 

 

土留めの階段を5分ほど上ると 石田三成陣跡

 

 

 

眼下に広がる関ヶ原一帯を眺め感慨一入

合戦絵図を眺めながら 暫し当時に思いを馳せました。

 

此処から   あし   あし   あし   20分ほど

島津義弘陣跡

 

石田三成の側面の守りと 北国街道の押さえを任された島津義弘

開戦後は

自ら攻撃に出ることはなく 自陣に近づく者は 東西両軍に

関わらず打ち払う姿勢をとり 幾度も参戦を要請するも呼応せず

(これまでに色々と経緯がありました) 小早川秀秋の寝返りで

戦況は一変で 島津隊は孤立

そして 世に名高い【島津の退き口】となります。

 

   この陣跡の前方に

   アサギマダラの舞い飛ぶフジバカマ畑があります。

 

あし   あし   あし   4分ほど 開戦地

東軍の松平・井伊隊が最初の攻撃を西軍の宇喜多隊に仕掛け

関ヶ原の戦いの火蓋が切られた地です。

 

直ぐ近くに 北天満山・小西行長陣跡

 

キリシタン武将だった 小西行長

自害することは叶わず自首 三成と共に六条河原で処刑

 

 

激しい戦闘が行われた地 

ススキで覆われ静寂な空気が漂い何事もなかったかのような

佇まいの中 雑草花に止まる蝶の姿が見られました。

 

↑ コセンダングサモンシロチョウ

 アレチハナガサツマグロヒョウモン 

マルバルコウソウ

 

あし   あし   あし   15分ほど

← に沿い森林の中を行きます。

 

 

 

途中 右脇に入った地

南天満山・宇喜多秀家陣跡

 

天満神社の境内に在ります。

 

西軍の主力部隊として活躍するも 最期は八丈島へ流罪

関ヶ原の戦いを経験した武将の中で最も長生き 84歳没

 

← 先に進むと

 

 

関ヶ原の古戦場の真ん中辺りに在る 藤古川ダム

 

 

急石段を上がると 天端へ

 

上流側には 取水塔 ↑  ↓ 下流側

 

★ 藤古川

伊吹山麓に源を発し 関所のそばを流れているところから

関の藤川と呼ばれ また壬申の乱では両軍がこの川をはさんで

開戦。

 

反対側の急階段を下り先に進むと 広域農道へ

 

 

この辺り

藤古川(関の藤川)の右側に位置し 藤川台と呼ばれる地

地形が平らでやや高い所に在ることからこの名が付いたとか。

 

 

此処でも アキアカネが飛び交っていました。

 

   ←   → 

足元に止まったのは 翅がボロボロの ツマグロヒョウモン 

 

その先 平塚為広碑

 

垂井城主(不破郡垂井町) 平塚為広は

盟友・大谷吉継の配下として北陸方面を転戦した後

戸田勝成と共に600の兵で藤川台に布陣

病んでいた吉継に代わり前線の指揮を託され藤堂・京極を

相手に善戦していたが 小早川が寝返り脇安も寝返ると

支えきれず 吉継に辞世の句を送り討死。

 

先程の標識まで戻り 大谷吉継墓所へ向かいます。

 

 

土留めの階段 緩やかな上り道を10分ほど  あし   あし

 

 

丁字路を右へ 

 

大谷吉継墓所

吉継の墓の左側に 家臣・湯浅五助の墓もありました。

 

 

墓所から少し下った所に 大谷吉継陣跡

 

大谷吉継はかねて松尾山に陣する小早川秀秋の態度に疑心を抱き

小早川秀秋に備えて松尾山の北の地・藤川台に陣を敷きます。

一旦は藤堂高虎・京極高知らの東軍の攻撃を却けましたが

東軍に内応していた秀秋の軍に側背を衝かれて吉継は苦戦と

なります。

 

松尾山眺望地

 

正面 1.5km先に望む標高・293mの松尾山

小早川秀秋が布陣した山です。

吉継は この眼下で数倍の小早川隊と激戦を繰り広げます。

 

現在は手前から 

JR東海度本線→旧中山道→21号線→新幹線→名神高速道路と

関ヶ原は昔と変わらず今も交通の要塞地点ですね。

 

 

 

何処からとなくふわっと舞ってきた クロアゲハ蝶

撮って …と言うが如しでした。

 

 

此処で 下り道って何処だっけ…確か 中山道 →を見た筈なのに

マップを確かめている所で単独の若者に出会い ほっ~です。

 

 

 

松尾山眺望地から 直ぐ脇の道を下ること 8分ほど

若宮八幡宮へ到着です。

 

壬申の乱の際

藤古川を挟んで西に大友皇子(弘文天皇)東に大海人皇子が陣をとり対峙

この神社のある藤下地区の住民は大友皇子側について参戦したそうです。

壬申の乱後 この地区の住民は共に戦った大友皇子を祀り

住民がこの神社を作ったと伝えられています

 

 

創建は不確か

御縁記によると 1320年(元応2年) 弘文天皇(大友皇子)を祀り

1404年・1500年に社殿修理 また1553年に造営修理が

行われたとの記録があり 本殿は檜皮葺の桃山様式の建造物と。

 

 

石段を下った先には JR東海道本線

 

 

 

線路を渡り石段を下り鳥居を潜って下り切った所でちんちんちん …

振り向くと 列車が通過です。

 

関ヶ原駅に向かって  あし   あし   あし

 

 

西首塚

               21号線沿いに在ります

関ヶ原の戦いの翌日

家康は 壊れた神社 戦死者の処理を 関ヶ原一帯を領していた

竹中重門(竹中半兵衛の子)に命じ 東西に2ヶ所 遺体を埋葬した

首塚を造営

敵味方区別することなく供養するのが 当時の習わしだったとか。

 

東首塚

 

関ヶ原駅から5~6分の地にあり朱塗りの門を潜ると 

その先にスダジイの大木 その横に塚があります。

西軍・東軍合わせて15万人余が参戦した戦い

亡くなられた方も相当数だったのでしょう。

 

           

フジバカマ畑のアサギマダラを撮ったりしていたので

巡った時間は5時間近くでした。

若宮八幡宮から関ヶ原駅迄の30分ほどは ただ黙々と

歩くと少し   ダウン  ダウン  ダウン

 

西軍を裏切った 小早川秀秋

秀吉の妻【ねね】の兄・木下家定の5男

幼児期に秀吉の養子となり 一時は後継者になるのではと

しかし 秀吉と淀殿の間に【秀頼】が誕生 

秀秋は小早川家の養子となります。

秀吉の晩年は 石高の低い地(越前)へと転封させられた秀秋

秀吉の死後 家康のとりなしにより再び旧領(筑前・筑後)を

取り戻すことが出来ました。

つまり 家康にも恩があったと言うことです。

 

しかし まだ裏切者はいた ?

【真の裏切者がいた】と言うことです。

戦場に出ることなく大坂城にいた 西軍の総大将【毛利輝元】

大坂城に留まるよう仕向けたのは 家臣・吉川広家です。

 

家康の陣の背後の高地(南宮山)に布陣していた 吉川広家

東軍の苦戦を目の当たりにしながらも傍観 同じ地にいた

西軍の動きも阻止と【吉川のから弁当】と言う話もありと

そして その行動が小早川秀秋の寝返り誘発になり 

また他の武将へと 一気に情勢が変わってしまったのです。

 

其々に事情あり思惑ありと揺れ動く武将もあった中での

関ヶ原の戦い 西軍のコースを巡ってきました。

 

滋賀県の

安土城址・小谷城址・坂本城址・佐和山城址・観音寺城址

近江八幡城址・大溝城址・中野(日野)城址・彦根城…と

 

岐阜県では特に

苗木城址・岩村城址・二つの明智城址(明智町・可児市)

菩提山城址(垂井町)久々利城址(可児市) 山口城址(本巣)

… などなど

巡っていた頃のドキドキ感を久し振りに味わってきました。