宇治は 大坂(難波津) 奈良(平城京) 京(平安京)を結ぶ要塞地

橋のたもとに 説明文がありました。

宇治橋

646年(大化2年)に初めて架橋されたと伝えられる我が国 最古の橋

長い歴史の中で 

洪水や地震などの被害 そして戦乱に巻き込まれたことも多々 

その都度架けなおされてきました。

現在の橋は

1996年(平成8年) 架け替えられた 長さ 155.4m  幅  25m 

木製の高欄に擬宝珠があしらわれています。

 

 

 

宇治川に架かる【橘橋】を渡ると中州へ

その先を進むと【宇治川先陣之碑】

後白河法皇から木曽義仲に平氏追討を命じられ一門を

都落ちさせと良好だった関係も次第に悪化

ついに 1184年(寿永3年) 後白川法皇から頼朝に義仲追討の命が

【 義仲と義経】が激流を挟んでの対峙

その時 義経軍の梶原景季と佐々木高綱が頼朝より下された

名馬を駆って先陣争いをして高綱が勝利した地です。

景季に高綱が「馬の腹帯が緩んでいる」との声掛け

締め直している間に出遅れたと言うことです。

 

 

その先に架かる【朝霧橋】を渡ると畔には

源氏物語の終焉の舞台となった宇治

光源氏死後の子孫とその縁者について記された【宇治十帖】

古跡全体を象徴する【浮舟と匂宮】のモニュメントがあります。

 

 

源氏物語の作者 紫 式部像は 宇治橋の西詰にあります。

 

 

 

文武両道に秀で経済的にも豊かだった 後鳥羽上皇

3代将軍・実朝とは和歌などを通じ交流と良好関係でしたが

1219年 実朝が暗殺された後

政務は政子が代行し執権である義時が補佐する幕府への

不信感を持つようになります。

 

1221年(承久3年) 5月14日

後鳥羽上皇は 北条 義時の追討宣旨を発せられます。

承久の乱の始まりです。

 

尼将軍の演説に始まり 朝廷と戦うことを決意

泰時を鎌倉方の総大将に 最終決戦の地・宇治

最大の激戦地 宇治橋では大苦戦しましたが 宇治川を

突破し入京 勝利を収めます。

後鳥羽上皇は隠岐島に流罪

 

約1ヵ月で終息

実質的に武士が世の中を支配

泰時は 第3代執権となり【御成敗式目】を作り

新しい世を作っていきます。

 

最終回 【報いの時】

3年後

義時は 体調不良 

後室・のえの勧める薬草を煎じたものを飲むと余計に体長悪化

「毒を手に入れて下さったのは 貴方の無二の親友 三浦平六(義村)殿」だと

 

何度も裏切ろうとする 三浦義村

義時の勧める酒を飲み 毒を盛られたと思い込み ろれつが回らなくなる

つい本音を喋りだすが毒で無かったと分かったら 急に元気になるんだと

このシーンには ドッキリしたりホッとしたりです。

 

ラストシーン

北条 政子

「ご苦労さまでした…小四郎」
 義時は静かに息を引き取り政子の嗚咽だけが聞こえる …

義時の穏やかな表情が とっても良かったですね。

 

13人

源 頼家の政を補佐するための13人【13人の合議制】

義時が鎌倉のためにと手にかけた人達 13人だったとは …

 

大枠では史料に忠実 史料では分からない所は創作だそうです。

たまたま 宇治川を欄干にもたれ眺めた日が

大河ドラマ【鎌倉殿の13人】放映最終日でした。

一年間 楽しませて貰いました。

 

                 もう少し周辺を巡ります