第2回・・・ 信長塾

テーマは 信長の懐刀・松井友閑

講師は 國學院大學文学部講師・竹本千鶴氏です。

 

松井友閑

生没年不詳 出自も家族も名字すら確かなことは ???

顔すらも解らないと。

イメージとしては 剃髪し坊さん風だった・・・

ただ 信長が うつけ者と言われていた時代からの付き合いで

友閑を特別の存在とみていた。

 

★ 外交官として

  若き信長に舞を指導する立場にあった友閑

  1568年(永禄11年)9月頃 家臣となり多方面で活躍

  (信長が 足利義昭を奉じて上洛した頃です)

 

外交官的な役割

* 足利義昭によって武田と上杉の和睦勧告が出された時の交渉役

  上杉家のつながりは 謙信亡き後も継続

* 信長との友好関係を築こうとした伊達家との窓口となり 両家は

  良好な関係を結んでいく

  友閑は 伊達家の当主に直接手紙を書くことが出来る立場にあった

 

最高位の側近

* 1570年(永禄13年)頃 堺の代官に就任した友閑は

  信長が 戦に出ている時は堺で代官の業務をこなし

  そうでないときは 信長のもとに駆け付け側近の役をこなすと

  堺と信長のもとを頻繁に往復

 

* 本願寺との和睦交渉

  1575年(天正3年) 和睦協議に奔走し 最終的に1580年(天正8年)

  正親町天皇の勅命講和と教如(顕如の息子)の大坂退城を成し遂げた。

 

交渉時の過程での信長の書簡には

近衛前久には建前 友閑には本音が記されている

つまり 友閑は 信長の代弁者であり 信長の思いの実行役であった

 

1570年(元亀元年)~1580年(天正8年) 石山合戦

1573年(天正元年) 室町幕府滅亡

 

1582年(天正10年) 本能寺の変

 

教如は

信長亡き後は秀吉~家康と関り 1614年(慶長19年) 57歳没

本願寺が東西に分裂する原因となった人物です。

 

茶人として

* 相手が重荷にならない心遣いと配慮の行き届いた亭主であった

* 堺の茶人に引けを取らない腕前であった

* 信長と同様で唐物を重視しつつ侘茶も所持 

  コレクションは80点と信長に次ぐものであった

斎藤道三のもとにも来岐した初期の茶頭であった不住庵梅雪

侘茶に固執との違いあった

 

2017年6月 新たに見つかった信長の茶会記には

      天正弐年五月二日

         於 御殿様御会

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   程々添次第被仰聞候  友閑御取合て候也・・・と

 

信長と直々に話をして 茶会の進行・点前・道具組まで任されていた。

信長茶会のディレクターだった!!

 

                         京都・古田織部美術館

            竹本千鶴講師のレジュメよりお借りしました

 

人徳者にして気配り上手

信長の政治と文化の両面でその手腕を発揮した友閑

 

本能寺の変の時は 堺で徳川家康を歓待中

変を知り上洛を目指すも途中断念

 

1586年(天正14年) 豊臣秀吉から堺の代官を罷免

その後の消息は??

 

友閑は

忠誠心を持つ信長の家臣

秀吉は

友閑が欲しかった・・・

利休は

秀吉の家臣ではなかった

友閑にあって利休になかったものは 忠誠心だった。

 

清洲~尾張一宮~岐阜と各駅停車でお越しになったと言う

竹本千鶴講師 

地名を聞くだけでワクワクされたそうです。

                        私・・・うんうん 解る

 

友閑に関する史料は乏しく 著書・松井友閑を書き上げるに際し

ご苦労されたようです。

もっと詳しく知りたい人は 本を読んで下さい・・・と。

 

短く感じられる時間でしたが 楽しく拝聴させて戴きました。