第3回 軍師・竹中半兵衛と信長&秀吉
講師は 垂井町教育委員会の亀田剛広(たかひろ)氏です。
竹中半兵衛(重治・重虎)は
父・重元が城主であった 大御堂(岐阜県揖斐郡大野町)で
生まれたとされています。(有力説)
重元が斎藤氏に仕えていたことから 稲葉山城下に居を構えて
いたので 半兵衛はここで誕生したのではとの説も・・・
☆ 半兵衛と信長
桶狭間の戦い後 1561年(永禄4年) 信長の美濃攻略が本格化します。
しかし 「十面埋伏」の陣を敷いた半兵衛に敗退させられます。
その後 主君・龍興の行いを諌めるため稲葉山城を乗っ取る。
信長は半兵衛の才略を賞し 「稲葉の城を我が方へ進上するよう」にと
半兵衛はその申し出でを断り 興龍に返上し 故郷へ戻り隠居の身となる。
☆ 半兵衛と秀吉
半兵衛の蟄居の地へ秀吉が訪ね 信長への臣従を勧めること三度
(三顧の礼) 三度目にようやく 信長ではなく秀吉ならばと承諾し
与力となった。(織田家から付けられた与力武将の一人とも)
近江・美濃の国境に領地を有していた半兵衛の人脈にも期待しており
近江侵攻にあたっても 調略(戦わずして引き入れる)という形で
また 戦場では軍師としての働きをする。
☆ 半兵衛と官兵衛
1575年(天正3年)信長に帰属した官兵衛と出会い
1579年(天正7年)三木城攻め陣中にて36歳で病没
同時期の活躍は 4年間でした。
1570年(元亀元年)秀吉に出合ってからの秀吉の武功は半兵衛の
働き大であったと。
江戸時代以降 軍略・軍法に優れた人と半兵衛の評価は高くなり
逸話も数多くありますが 史実上の実像が今一つ?
不明瞭だということです。
岐阜県揖斐郡大野町公郷(くごう)に在る 半兵衛生誕の地です。
八幡神社の境内の一角に 生誕の碑があります。
1544年(天文13年) 重元(しげちか)の子として誕生
1588年(永禄元年) 不破郡岩手城を父とともに奪取し
菩提山城を築城し居城を移す。
田園風景の広がる中に ひっそりとありました。
(幟旗がなければ見過ごすところでした)



