この間、アメーバニュースで知った出来事です。
死刑判決が下された光市母子殺害事件の裁判について、瀬尾佳美・青山学院大学准教授のブログでの発言が物議を醸している。
その発言とは「この事件の被害者は1.5人だ」というもので、被害者の赤ちゃんを0.5人と数えている。
その理由として、まったくの個人的意見とは断りながら「赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまうから、傷害致死の可能性は捨てきれない」としている。
ちなみに同氏は今回の死刑判決には異議を唱えており、その根拠は選挙権がない少年であることだ。
「最低でも永山基準くらい設けてほしい。永山事件の死者は4人」との意見も述べられている。
ただし、同氏は死刑廃止論者ではないと宣言しており、今回の死刑を求める『国民運動』に違和感を超えて恐怖さえ覚えているようだ。
↑
以上が、アメーバニュースからの抜粋。
そして、ここからが僕の意見です。
↓
この准教授は、こういう発言をしても問題無いとでも思っていたのでしょうか?
なぜ、わざわざ被害者遺族の神経を逆撫でするようなことを言ったのでしょうか?
赤ちゃんのように、物心がついてない人間は人間では無いかのような発言…。
年齢に関わらず、人間は人間です。
年齢によって数え方が違うなんて、どうかしてます。
それに、
「赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまうから、傷害致死の可能性は捨てきれない」
という発言…、僕には論点がズレているように思えます。
仮に傷害致死だったとしても、結果殺害したことには変わりません。
そして、死刑判決への異議。
「選挙権がない少年だから」
とか、
「永山事件の死者は4人で、この事件の死者は1.5人」
とか…、これらもまた論点がズレているように思えます。
この准教授に限らず、よく
「加害者は事件当時、未成年だったわけだし」
みたいなことを言う人が居ますが、
どうして『未成年なら仕方ない』かのようなことを言えるのでしょうか?
こういうことを言う人は大概、
「何十年と将来の有る人物だから」
とか、
「更正の余地は有る」
とか言います。
その『何十年と将来の有る少年』に殺された、『更にもっと将来が有る赤ちゃん』の立場はどうなるのでしょうか?
「未成年だから更正の余地は有る」
と言う根拠も全くわかりません。
必ずしもそうだとは言いきれません。
中には再犯するバカが居る可能性だって有ります。
未成年が犯した事件(特に殺害事件)が起きた時に、僕は個人的に納得のいかないことが有ります。
被害者の名前や顔はバシバシ出すのに、加害者の名前や顔は出さない。
加害者の人権や将来ばかりを尊重する風潮…。
コレって、何だかおかしくありませんか?
「未成年だから名前や顔は出せない」
という次元の話ではなく。
法を犯してるんですよ?
それが殺害なら尚更、名前や顔が出ても文句は言えるはず無いと思います。
どうせ裁判をすれば傍聴人に知られるわけですし。
「永山事件は4人だから」
という発言…。
殺害した人数って大事でしょうか?
何人だろうと殺害した時点でアウトです。
それを犯したのが未成年であろうとなかろうと。
『死刑を求める国民運動に違和感を超えて恐怖さえ覚えている』って…、僕には准教授の考えや発言のほうがよっぽど怖いです。
『死刑』ってそんなに良くないことですか?
先ほども言ったように、未成年であろうとなかろうと人を殺害した時点でアウトです。
人の命を奪ったのなら、自身の命で償う。
当然の報いだと思います。
↑
(※コレは、光市母子殺害事件の被害者遺族である本村さんも同じようなことをおっしゃっていました)
己の欲望や都合のために人を殺す…いや、理由(動機)が何であれ人の命を奪うなんて、人間として最低です。
何も悪くない人の命を無理矢理奪ったんです。
人の『人生』を勝手にストップさせたのです。
そんなことを犯した奴が、『懲役』やら『終身刑』やらでのうのうと生きるなんて有りですか?
人の『人生』を勝手にストップした奴は、自身の『人生』もストップされるべきなんです。
それをできるのは、法だけなんです。
本当なら、被害者遺族は加害者を自らの手で殺してやりたい気分だと思います。
でもそれをしてしまうと、その人も加害者と同類になってしまいますし、何より亡くなった被害者が悲しむ行為になるんです。
だから被害者遺族は、その気持ちを必死に抑えて法の裁きに委ねているんです。
この『死刑』という制度そのものに対して、
「法であろうと、罪人だって人だから、人の命を奪うのは良くない」
と言う人が居ますが、
そんな考えは、僕からすれば甘いです。
考えてみてください。
皆さんにとって大切な人、愛する人がある日突然誰かに殺されても、
「未成年なら仕方ない」
とか、
「いくら犯罪者でも、死刑はさすがに…」
と考えられますか?
きっと無理だと思います。
加害者のことを憎み、恨み、自らの手で殺したくて殺したくてしょうがなくなり…、狂気にも似た正気ではいられないような気持ち(感情)になると思います。
現代の日本で、そんな気持ちを和らげてくれるのは、法しか無いんです。
本村さんは以前、
「加害者の少年が死刑になった所で、終わるわけではありません。この悲しみは一生背負わねばなりません」
みたいなことをおっしゃっていました。
まさにそうです。
加害者が死刑になった所で、被害者が生き返るわけでも、事件が終わるわけでもありません。
けど、加害者が『未成年』というだけで死刑を免れてのうのうと生きていくのが許せないのだと思います。
堪えられないのだと思います。
だから『死刑』という選択をすることで、1つの展開を得たいのだと思います。
ですから、死刑制度廃止論者の人は、今一度『命の重さ・尊さ』や『死刑の存在意義』について考え直してください。
死刑判決が下された光市母子殺害事件の裁判について、瀬尾佳美・青山学院大学准教授のブログでの発言が物議を醸している。
その発言とは「この事件の被害者は1.5人だ」というもので、被害者の赤ちゃんを0.5人と数えている。
その理由として、まったくの個人的意見とは断りながら「赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまうから、傷害致死の可能性は捨てきれない」としている。
ちなみに同氏は今回の死刑判決には異議を唱えており、その根拠は選挙権がない少年であることだ。
「最低でも永山基準くらい設けてほしい。永山事件の死者は4人」との意見も述べられている。
ただし、同氏は死刑廃止論者ではないと宣言しており、今回の死刑を求める『国民運動』に違和感を超えて恐怖さえ覚えているようだ。
↑
以上が、アメーバニュースからの抜粋。
そして、ここからが僕の意見です。
↓
この准教授は、こういう発言をしても問題無いとでも思っていたのでしょうか?
なぜ、わざわざ被害者遺族の神経を逆撫でするようなことを言ったのでしょうか?
赤ちゃんのように、物心がついてない人間は人間では無いかのような発言…。
年齢に関わらず、人間は人間です。
年齢によって数え方が違うなんて、どうかしてます。
それに、
「赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまうから、傷害致死の可能性は捨てきれない」
という発言…、僕には論点がズレているように思えます。
仮に傷害致死だったとしても、結果殺害したことには変わりません。
そして、死刑判決への異議。
「選挙権がない少年だから」
とか、
「永山事件の死者は4人で、この事件の死者は1.5人」
とか…、これらもまた論点がズレているように思えます。
この准教授に限らず、よく
「加害者は事件当時、未成年だったわけだし」
みたいなことを言う人が居ますが、
どうして『未成年なら仕方ない』かのようなことを言えるのでしょうか?
こういうことを言う人は大概、
「何十年と将来の有る人物だから」
とか、
「更正の余地は有る」
とか言います。
その『何十年と将来の有る少年』に殺された、『更にもっと将来が有る赤ちゃん』の立場はどうなるのでしょうか?
「未成年だから更正の余地は有る」
と言う根拠も全くわかりません。
必ずしもそうだとは言いきれません。
中には再犯するバカが居る可能性だって有ります。
未成年が犯した事件(特に殺害事件)が起きた時に、僕は個人的に納得のいかないことが有ります。
被害者の名前や顔はバシバシ出すのに、加害者の名前や顔は出さない。
加害者の人権や将来ばかりを尊重する風潮…。
コレって、何だかおかしくありませんか?
「未成年だから名前や顔は出せない」
という次元の話ではなく。
法を犯してるんですよ?
それが殺害なら尚更、名前や顔が出ても文句は言えるはず無いと思います。
どうせ裁判をすれば傍聴人に知られるわけですし。
「永山事件は4人だから」
という発言…。
殺害した人数って大事でしょうか?
何人だろうと殺害した時点でアウトです。
それを犯したのが未成年であろうとなかろうと。
『死刑を求める国民運動に違和感を超えて恐怖さえ覚えている』って…、僕には准教授の考えや発言のほうがよっぽど怖いです。
『死刑』ってそんなに良くないことですか?
先ほども言ったように、未成年であろうとなかろうと人を殺害した時点でアウトです。
人の命を奪ったのなら、自身の命で償う。
当然の報いだと思います。
↑
(※コレは、光市母子殺害事件の被害者遺族である本村さんも同じようなことをおっしゃっていました)
己の欲望や都合のために人を殺す…いや、理由(動機)が何であれ人の命を奪うなんて、人間として最低です。
何も悪くない人の命を無理矢理奪ったんです。
人の『人生』を勝手にストップさせたのです。
そんなことを犯した奴が、『懲役』やら『終身刑』やらでのうのうと生きるなんて有りですか?
人の『人生』を勝手にストップした奴は、自身の『人生』もストップされるべきなんです。
それをできるのは、法だけなんです。
本当なら、被害者遺族は加害者を自らの手で殺してやりたい気分だと思います。
でもそれをしてしまうと、その人も加害者と同類になってしまいますし、何より亡くなった被害者が悲しむ行為になるんです。
だから被害者遺族は、その気持ちを必死に抑えて法の裁きに委ねているんです。
この『死刑』という制度そのものに対して、
「法であろうと、罪人だって人だから、人の命を奪うのは良くない」
と言う人が居ますが、
そんな考えは、僕からすれば甘いです。
考えてみてください。
皆さんにとって大切な人、愛する人がある日突然誰かに殺されても、
「未成年なら仕方ない」
とか、
「いくら犯罪者でも、死刑はさすがに…」
と考えられますか?
きっと無理だと思います。
加害者のことを憎み、恨み、自らの手で殺したくて殺したくてしょうがなくなり…、狂気にも似た正気ではいられないような気持ち(感情)になると思います。
現代の日本で、そんな気持ちを和らげてくれるのは、法しか無いんです。
本村さんは以前、
「加害者の少年が死刑になった所で、終わるわけではありません。この悲しみは一生背負わねばなりません」
みたいなことをおっしゃっていました。
まさにそうです。
加害者が死刑になった所で、被害者が生き返るわけでも、事件が終わるわけでもありません。
けど、加害者が『未成年』というだけで死刑を免れてのうのうと生きていくのが許せないのだと思います。
堪えられないのだと思います。
だから『死刑』という選択をすることで、1つの展開を得たいのだと思います。
ですから、死刑制度廃止論者の人は、今一度『命の重さ・尊さ』や『死刑の存在意義』について考え直してください。