全国11万社のうち八幡社は4万社を占めています。
誉田八幡宮を語るには、まず八幡信仰の歴史から知らなければなりません。

酒の一滴は大河の一滴



東高野街道
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「誉田八幡宮 だんじり4月8日、若宮の例祭にて車楽二輌出る。上に作り花をかざり笛、太鼓、鉦を囃して音楽の真似あり。三韓退治の吉例にて、日本だんじりのはじめとかや。」摂津名所図会
                                     
~明治頃まで続いた若宮(夏祭)の例祭の光景です。
この街道で曳かれていたんですね。
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「誉田の楽車は古風にして外の囃子とは違う也これだんじりの始まり也とぞ」
                                      河内名所図会
檀輾(だんじり)
これは根本的に大阪の地車(だんじり)とは別物のようです。
しかし是非いつか
この檀輾を再興してほしいですね。
この地の貴重な遺産だと思います。
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東高野街道
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■東門
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■鳥居
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■拝殿
1606年再建。
入母屋造正面唐破風、割拝殿、本瓦葺、間口十間、奥行三間

大坂の役により完成に至らず放置されましたが、徳川家光により再建工事が再開され寛永年間初頭に竣功をみました。
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右近の橘、左近の桜・・・・なぜ御所以外、寺院や神社に時々これがあるのか疑問でしたが、どうやら門跡のような皇族関係の寺院には多く見られるそうです。

神社には全国的に右近の橘、左近の桜を配置する例が多いので、一概にその根拠を特定できませんが。
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唐破風向拝部分の蛇腹。
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とても立派な拝殿です。
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■本殿
■中門
近年修復されたようですね。
緑青の銅板葺から美しい光沢のある赤銅色に甦りました。
木材の汚れや退色も処理され、真新しい金具が鮮やかで豪華に際立っています。

赤みのある若々しい色合いの本殿を見られるのは、まさに幸運です。
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■絵馬殿
高価な神馬を奉納できない庶民でも絵馬くらいなら、と持て囃されました。
わたしの知る限りの絵馬殿や絵馬堂は、吹きさらしの東屋のような休憩所のイメージしかなかったのですが、これは大規模でしかも壁ありです。

しかしこれほどの建物でも存在感は薄いんでしょうか、あまり参拝者に認識されていないようでもあります。
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肘木などが印象的な建物です。
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絵馬殿に展示されていた松の盆栽です。まっ白なジンが龍のように躍り上がる見事な姿は、なかなかお目にかかれない名品でした。
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素敵な屋外照明です。
こんな膨らみのあるガラス工芸は見たことがありません。新鮮です。
ひとふさひとふさのガラスに温もりを感じます。
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絵馬殿の背後に支柱が3本ほど入っているように見えます。
構造的な問題でもあるんでしょうか。
拝殿と共に後世に残してほしい貴重な建築物だと思います。
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■安産社
槐(えんじゅ)の脇に社が鎮座しています。
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■槐(えんじゅ)
後冷泉天皇が槐木の枝を産室に吊るして、安産を祈願されました。
由良御前が槐木の枝を魔除けとして祈念し源頼朝を出産しました。
安産木として信仰されています。
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■南大門
1606年豊臣秀頼により再建。
長野山護国寺のなごりを唯一残しています。
南大門以外の寺院建築物は廃仏毀釈により破却されました。
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南大門の両脇には地車庫。
宮入4町の地車庫が全て社域にあります。
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■茶所     ■手水舎
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■姫待(ひめまつ)稲荷社
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■神馬像
1196年源頼朝より神馬・鞍などが寄進されました。
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■恵比寿社
商売繁盛・家内安全祈願の神様です。
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一間社神明造、銅板葺
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■誉田宝殿
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藤棚にある巨石。
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境内には長持形石棺の小口石、堅式石室の天井石などがあるとのこと。
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■放生池
池にも破片があります。
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■社務所
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■拝観庫          ■神庫
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■制礼所  ■消防庫  ■地車庫
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応神陵 参道
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■当宗(まさむね)神社 
式内名神大社。祭神は素戔嗚尊。
9世紀には独立社として存在していました。

楽浪郡からこの地に移住してきた渡来氏族・当宗忌寸(まさむねのいみき)一族の祖と言われる山陽公、そして応神天皇の妃・仲津媛命を当初は祀っていました。山陽公とは後漢14代最後の皇帝・献帝(189-220年)のことです。

南北朝時代の戦火により社殿焼失し、その後は小祠のみとなりました。
1907年誉田神社に合祀。
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■おうまやの跡
日本書紀に記述があります。
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■神輿庫
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■塵地螺鈿金銅装神輿 国宝
建中年間源頼朝寄進と伝わります。
木製方輿、屋上鳳凰、漆塗り、梨子地に螺鈿細工、金銅製金具。
軒先に宝相華文透彫幡、軒下に帽額、八花形鏡透彫花鬘12枚。
四周に下げた錦織の布地も希少なものです。
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■放生橋
鎌倉末期建造。長さ4m、幅3m、橋脚高3.5m。
放生川に架けられた花崗岩製の反橋です。

真正面の山が応神陵 、左の橋が放生橋、右にも平らな橋があります。
いずれも閉鎖され進入禁止です。
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実際に見た人にはわかりますが、この橋の傾斜ではとても歩いて渡れるものではありません。
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使用する時に限り、反橋に木製の階段を設置することがあるようです。
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神輿を担いで橋を渡り、祝詞の奏上、神楽の奉納などの神事が行われます。
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かつてはここより後円部の頂上にある六角形の宝殿まで石段を登り、一般客でも参拝ができていたそうです。
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反橋脇の平らな橋。
神輿渡御の際に限られますが、神輿も一般客もこちらの橋より入陵します。
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天皇陵への御渡りが許可されているのは全国でも唯一ここに限られ、当日のみ一般客の入陵が同時に認められます。
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【誉田八幡宮】 
(読)こんだはちまんぐう
(英)Konda Hachiman-gu Shrine
大阪府羽曳野市誉田3丁目2-8

□創建:(伝)欽明天皇の勅願により応神陵 前(あるいは頂上)に建立
□祭神:応神天皇
□社格等:府社

□国宝・重文など多数の文化財を収蔵。

□例祭:夏祭(藤祭)5月8日舞楽奉納
      秋季大祭9月15日神輿渡御
      だんじり曳行9月第3土日 
           西之口町、馬場町、王水町、鍛治町の4町宮入

□無料P:東門より入ってすぐの場所と、右手奥にもあり
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538年仏教伝来。
571年(伝)譽田天皇廣幡八幡麻呂が宇佐(大分県)に初めて示顕。

6世紀(伝)欽明天皇の勅願により応神陵 前(あるいは頂上)に建立。

725年八幡宮総本社となる「宇佐神宮」創建。
769年宇佐八幡宮神託事件。
783年桓武天皇が八幡神に「大自在王菩薩」の称号を与える。
    これより神仏習合の端が開かれる。

860年「石清水八幡宮」勧請。

1046年八幡太郎(源義家)石清水八幡宮にて元服。
     清和源氏の氏神、武家の守護神として広まる。

1051年誉田八幡宮がもとの鎮座地から109m南に移し現在地に遷座。
     この頃の誉田八幡宮創建説が有力。

1063年「鶴岡八幡宮」勧請。
1196年源頼朝により社殿・伽藍修復。
     神輿(国宝)、神馬など寄進。
     鎌倉・室町期には繁栄。
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                                    誉田宗廟縁起

1454年河内守護畠山氏の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃。
     織田信長の河内支配により社寺領没収。
     豊臣秀吉により社領寄進、社殿再建。
1586年社殿焼失。

1606年豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行にし社殿再建。
1615年大坂夏の陣により豊臣氏滅亡。
     徳川家の保護を受け社殿修復を繰り返す。

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                     誉田八幡宮境内図 社寺境内図資料集成

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                      誉田八幡宮図 西国三十三所名所圖會

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1868年神仏分離令・廃仏毀釈により神宮寺「長野山護国寺」廃寺。
1883年応神陵墳頂の六角宝殿(奥ノ院)破却。