さくらとひとみとはなとみき | ボクノメソドロジー my-methodology

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奄美大島出身(あと東大出身)芸人ザウルス・濱田壮摩の似非インテリ内省録。毎週月曜更新中。

週に1度


中目黒での仕事があるので、


先週末

その仕事おわりの昼ごろに


花見の定番

目黒川の方へふらり立ち寄り、


なんでも東京の桜は

統計開始以来2番目の早さで

満開になったとか、


みんな

花見の用意もできなかったんじゃないか

と思いきや、



これがひくほどの

人出であって、



いやまじで、



もとより

川沿いの狭い道では


ブルーシートで大宴会


などできようもないのだけれど、


とはいえ

歩きながら見ようにも

前方不注意では事故必至の大混雑、


必然的に目線は


花、人、花、人、人、‥、





花2に人3


くらいの


花見



人見(ひとみ)


にならざるをえず、



ホントにこの人たちは

花が好きで

花を見に来ているのだろうか





疑いたくもなったのだけども、



翻って

自分にそう問い返してみたところ



実は

自分自身がそうでもない

ことに気づいたりして、



仮に

目黒川の桜を独り占めできたとて

それが

特別に心おどることでもなく、


桜の開花宣言

よりも

センバツの開会宣言

の方が

テンションも上がったりするようで、



というのは多分


奄美には


あの薄桃色のソメイヨシノがなく


カンヒザクラ

という

ショッキングピンクの桜が

2月のまだ(地元の人間には)肌寒いころに

咲きはするのだけれども、


これが下向きにうつむいて

なんとも悲しげな姿の花

をつけたりするものだから


花見などには不向きであって、


幼いころから

桜の花を愛でる習慣がない

のも

一因ではあろうけれども、



もっと個人的なところでいうと、



桜は




である前に



なのであって、




を見るときに

視線が向かうのが

花や枝葉より

まず





で、


屋久杉

がその最たる例であるように




を見て心の動かされるのは

その



の姿によるところが大きくて、


内側で水・栄養の流れるさま

なんかを

想像しては、


そうして

年輪がゆっくりゆっくり増えるさま

なんかを

イメージしたりして





を愛でる、


だから

巨木の一本桜

なんかは好きなのだけど、


それは


花見

というより

幹見(みきみ)


であって、


強いて

桜であることのよさを言うなら


花→葉→枯れ

のサイクルが

よく目に見えることで


年輪を増やすさま



よりイメージしやすくて、


何年も何年も

そこに立ち続けている

その木が見てきた


歴史


なんかにまで想い馳せられる

というもので、



まあしかし


花より幹


なんて話は

子どものころに

どこかで読んだ気もするな



ふと思い出したりしてみつつ、



花見の誘いがまったくないことへの

悔しまぎれ



こうしてだらだらと云々する、



そんな、ボクです。


*****

言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。

大岡信,1978,『ことばの力』,花神社