祈りぶーめらん | ボクノメソドロジー my-methodology

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奄美大島出身(あと東大出身)芸人ザウルス・濱田壮摩の似非インテリ内省録。毎週月曜更新中。

おととい


月曜に


もう1本更新するはずだった

このブログ、

年始に立てた



毎週月曜に2本更新のペース


を固持する



という



ウラ目標は



早くも3月にして

2日遅れが生じてしまったけれど、


べつに誰にどうと言われることもないわけなので、


とくに悪びれもなく

書き留めておく


考えごと、



14:46






そのときが


バイト先で

メールチェックをしている間に

気づかぬうちに

過ぎていたりして、


今年も

祈りのひとつも捧げることなく

この日を過ごしてしまった

午後5時ごろに


悶々と、



はて

その



祈り






どこに向かうか


と考えてみたりして、



ひとつは



亡くなった人々へ、



いたるところで表明される


「ご冥福」に対する祈り



地上を離れてあの世へ向かい、




ふたつめに



生きている被災者の人々へ、



「はやく笑顔が戻ること」を祈ったり


「穏やかな生活」を祈ったり、



この世の


同じ地上の上にも



祈りの着地点はあるようで、




ほかにも


多分そのすぐ近く



行方不明者の人々へ、



家族や友人の納得できる形で


「発見」されること



祈ることもできるだろうし、



復興・支援活動中の人々へ、



そのミッションが実を結ぶこと


そして


当人が無事でいること



祈ることもできるだろうか、




ひとくちに



祈る



ことにも



多様に意味がありそうだ



という話ではあるのだけれど、




しかし




別の次元から見てみると、



祈る



ことに



意味などない



といえなくもなく、




人が一人



目を閉じて頭をたれたところで



それで



復興が進むでもなし、



遺族の悲しみが消えるでもなし、




ともすれば



祈りのポーズは



「無関心ではない」



自分を正当化して、



自らを


「良識ある人」


に仕立て慰める



そんな意味をもったりもして、




この場合の



祈りの着地点





めぐりめぐって



自分自身、




そのブーメランに打ちのめされて



やはり


実際に動かねば


とは思うけれども、



すぐにそれに専心できるほどには


(いろんな意味で)自由でもなく、



手軽に実践できる復興支援についての


アイディアも情報も


十分にない



わが身の無力を呪いつつ、




ということはつまり



実際には


何の行動も起こさず



いながらにして、



こうして云々することで



まんまと



「良識」のポーズをとっている、




そんな、ボクです。



*****


わけ知りには、志がない。志がないところに、社会の前進はないのである。


司馬遼太郎,2000,『菜の花の沖』,文春文庫