手抜き | ボクノメソドロジー my-methodology

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奄美大島出身(あと東大出身)芸人ザウルス・濱田壮摩の似非インテリ内省録。毎週月曜更新中。

今日は


とある本の


とある一節を


まるまるコピペして手抜き。。



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「負け惜しみ」と「やせ我慢」の違いを


もう一度説明します。



負け惜しみは、


キツネが


目の前の甘そうなブドウが手に入らないことに腹をたてて


「あのブドウは酸っぱいに決まっている」


と決めつけるあれでした。


追求している価値が手に入らないために、


思わず悔しまぎれに行う限定的な否定です。


次に手の届くところに甘そうなブドウがあれば、


食べるつもりで行う限定的な否定です。


手の届かない「あのブドウ」だけが


とりあえず酸っぱいのです。



一方、やせ我慢は違います。


すでに普遍化のプロセスに入っています。


方法はあるにもかかわらず、


獲得しようとしないことを選択するのがやせ我慢です。


ブドウの価値を否定し


別の価値に目を向けようとする態度です。


つまり目の前の手の届くところにブドウがなっていても


食べないのがやせ我慢です。



キツネは当初、切実な思いで、


手段や方法の工夫、案出を模索しました。


これは、単純化を恐れずに言えば、


技術、テクノロジーによる解決です。



しかしそれがかなわぬときに、


「負け惜しみ」を悔しまぎれに言ったのでした。


見方によっては


何とも見苦しく下品なことと取れるでしょう。



やがてそれは「やせ我慢」へと転換し、


文化や道徳を生み出していきます。


今度はテクノロジーを横目で見ながら、


それを断固否定し、


自分が生み出した意味や価値を信じようと


必死に頑張ることになります。



人によっては


負け惜しみ以上に諦めの悪いことと見えることでしょう。



(石川准,1999,『人はなぜみとめられたいのか アイデンティティ依存の社会学』,旬報社)


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人は


見苦しく下品、諦めの悪いこんなやり方で


自分を保つもの。



あえて


ネガティブに追い込んでみるのも似たようなもんかと


ふと思いつつ、



クリスマスモード全開の世間を横目に


「別に毎年ひとりだし」



「やせ我慢」でなく「負け惜しみ」を垂れる、



そんな、ボクです。



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僕は僕の素晴らしき人生の為に

寝っ転がってテレビを見ている


真心ブラザース,1999,「突風」