テオドール・クルレンツィスの指揮するアルバムは、発売される度に話題になります。
出てくる音楽が、これまでのものと違いすぎるからです。
「わざとらしい」とか「気をてらった」という表現が当てはまりやすく、事実、ネットではこういった表現が使われたコメントが見られます。
演奏スタイルも変わっていて、普通は着席して演奏する楽器も、立ったまま演奏します。
奏者によっては、まるで踊っているようにも見え、それが音楽のうねりと一致すると、言いようのない感動を味わえます。
クルレンツィスのアルバムはほとんど聴いていると思いますが、ベートーヴェンの「運命」は一番強烈でした。
ベートーヴェンが言ったかのように扱われる「運命はこのように扉をたたく」という表現がありますが、これがそのまま当てはまるような激しさです。
「運命」の名演といえば、カルロス・クライバーの演奏をベストに上げる人が多いと思います。
クライバーの演奏も激しさがありますが、有名な運命の主題については、激しさというより、美しさを感じます。
フレーズの終わりがのびやかに演奏されているため、そう感じるのかもしれません。
クルレンツィスの演奏は、強烈な激しさが美しさに優っています。
また強弱の付け方が極端で、これまで聴いてきた沢山の「運命」にはなかった表現です。
次はどうなるのだろうと言う事に気持ちが奪われて、音楽に身を委ねる感じにはなりません。
当時、この曲は相当な前衛音楽だったと想像すると、初演でクルレンツィスのような演奏が行われていれば、その後の音楽史が変わったかもしれません。
同じ楽譜から様々な音楽が生まれる事を考えれば、その可能性はあったはずです。
こういう極端な表現を、小手指とかウケ狙いと捉えて嫌う人もいるようですが、私はそうでもありません。
クルレンツィスがきっかけで、他の「運命」のアルバムも聴きたくなりました。
1961年から62年にカラヤンがベルリンフィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集は、快速テンポで、激しいながらも全体的なバランスが整っている点が素晴らしく、あらためて聴き直してみると、クルレンツィスより好ましく思います。
カラヤンは、ライブやDVDを除くとベートーヴェンの交響曲全集を、この後2回録音していますが、だんだん勢いが無くなっているように感じます。
クルレンツィスのような極端な演奏もいいですが、オトマール・スウィトナーやペーターマークのような、落ち着いた大人の演奏に浸りたくなることもあります。
ジョルジュ・ジョルジェスクの演奏は、オーケストラがあまり上手では無いのですが、第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンが対向配置になっていて、楽譜が見えるようで興味深い録音です。
クラシック音楽の楽しみ方のひとつとして、聴き比べがあります。
「運命」ひとつをとっても、こんなに違うのかと驚かされます。
第1楽章を比べるなら、クルレンツィスVSシェルヘンでしょう。
シェルヘンのベートーヴェンは、荒れ狂う狂気のベートーヴェンです。
基本的には、オーケストラがついていけないほどの超快速なのですが、「運命」ので出しは、真逆です。
2つを比べると、有名な動機「ジャジャジャジャーン」がこれ程違って演奏されることに驚くと思います。
学校の音楽の時間でこう言う聴き比べをやってくれれば、もっとクラシック音楽好きが育つと思うのですが、指導要領に縛られている教育現場では望むべくもないですね。