何かに興味を持つのは、多くの場合は偶然がきっかけのようです。
秩父に向かう途中でした都幾川桜堤の桜を見ようと車を駐車場に停めると、道の反対側に木曽義仲(源義仲)ののぼりが見えました。
のぼりをたどると鎌形八幡神社がありました。
この神社には、木曽義仲が産湯に浸かった水が出ている手水舎があります。
木曽義仲は、小学校の頃から知っていた武将の名前でした。
他に知っていたのは、源義経、楠木正成、新田義貞、足利尊氏、加藤清正、山中鹿之助などの武将です。
学校の授業で知ったわけではなく、源義経の兜のプラモデルを買ったことがきっかけでした。
兜は正面から左右に伸びている立物(たてもの)の形が特徴的で、木曽義仲の立物はバランスが絶妙で、ザ・兜だと思います。
お小遣いは1日10円だったので、コレクション増やすことはできず、身の回りの材料で工夫して作ったりもしました。
木曽義仲ののぼりを見てこんな事を思い出しました。
木曽義仲はどんな武将だったのか思い出せません。
ただイメージとしては、尊敬すべき名将という印象は残っていました。
ちょっと調べてみると印象の通りでした。
木曽義仲は、短気で喧嘩っ早いと言われていますが、情に厚く、一度頼ってきたものに対しては最後まで守り抜くという男気があったそうです。
そんな一面が、4月3日の大河ドラマでも描かれていました。
平家と通じていないことを証明するために、人質として叔父である源行家を差し出すように迫られたとき、行家を渡さずに自分の息子を差し出したというエピソードです。
行家はドラマではあまり良い描かれ方をされていない人物です。
行家は自分を認めようとしない頼朝の元を離れ、頼朝との関係が悪化していた義仲側についたという経緯があります。
義仲は行家を差し出すと、必ず頼朝に殺されるだろうと考え、自分の息子を差し出したと言われています。
戦い好きとも言われていますが、実際には売られた喧嘩が多かったようです。
征夷大将軍としては頼朝というイメージがありますが、先に京に入り、その地位に地位についたのは木曽義仲でした。
ドラマや小説は、描かれ方によって印象が変わると思いますが、それを差し引いても木曽義仲は魅力的な人物に思えます。
実はこの翌日には、群馬県太田市にある新田義貞資料館に行きました。
実家が埼玉県熊谷市なので、新田義貞や足利尊氏は身近な武将といえます。
熊谷市と言えば、一之谷の合戦で泣く泣く平敦盛の首をとった熊谷次郎直実がいます。
地元熊谷には、直実節という歌があって、歌詞の一番の最初には「秩父の峰の雪白く」と秩父も登場します。
魅力的な武将と言えば、楠木正成という名将がいました。
小学生の頃の私にとっては、武将の中では一番のヒーローでした。
ゆかりの地を巡ってみたいですが、西日本になるので気軽には行けません。
天皇家を守ったという事で、楠木正成像外務省皇居にあるようなので、まずはそこに行ってみようと思います。
旅行に出かけた時、寺社巡り、酒蔵やワイナリー巡り、地元の博物館や資料館、そして珍しい地層が楽しみの一つですが、その中に武将のゆかりの地も加わりそうです。