昔から哲学は、「役に立たない学問だなあ」と思っているのですが、自分が死んだら世界も消滅するんだろうなという感覚や、私という意識とはどういうことなのだろうと不思議に思う気持ちがあって、その答えを求めようと、20代から時々哲学本を手に取っては挫折を繰り返していました。

 

存在する世界の中で、後から生まれた言語を使って世界について語る事自体が難しい事だとは思うのですが、それを承知で本を探すわけです。

 

ヴィトゲンシュタインが気になったのは、彼が『論理哲学論考』を書き上げた時、これで哲学についてはやり尽くしたとしてそこでペンを置き、高校の先生になったと言う文を目にした事がきっかけでした。

 

ヴィトゲンシュタイン自身は、一般的な学者のように哲学について専門的に学んだわけではないということにも惹かれました。

 

「およそ語られうる事は明晰に語らえうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」なんて言う考えは、何とも潔いではありませんか。

 

岩波文庫にあった『論理哲学論考』を手に入れ、少しずつ読んではみたものの、訳文のせいなのか、そもそも内容が難しいためのか、なかなか書いてあることの本意が読み取れません。



 

こんな時にはドイツ語の原書に当たると良いのでしょう。

 

ドイツ語は、大学1年生の時の第2外国語として選択した最初の授業で、男性名詞や女性名詞の区別のようなめんどくさいことがある言語は自分の性に合わないと、授業の途中で教室を出てしまい早々に諦めた言語です。

 

これについては反省していて、なぜ男性名詞と女性名詞に分けたのだろうという点に興味を持てば、別の展開があったかもしれません。


「およそ、読みえない言語で書かれた本については、自分は沈黙せねばならない」という事で原書は早々に放棄です。

 

『論理哲学論考』は、一つのテーマでダラダラと書かれているのではなく、1行から数行で簡潔に書かれているのでわかりやすいはずですが、書いてある事を理解するのは難しい。

 

そんな時に見つけたのが、この本です。



 

中学生のために書かれた内容らしく、全く難しくないわけではありませんが、これを読んでから『論理哲学論考』を読むと、グッとわかりやすくなります。

 

難しい言い回しはほとんど使っていないので、わかりやすい言葉や表現で授業をしてくれる教授の授業に出席しているような気持ちになれます。

 

「倫理」を語る事や、「宗教」を語る事には昔から抵抗感があって、そう感じる理由も提示してくれそうなので、これら2冊の本を少しずつ読み進めています。