チィコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は、聴く頻度は少なくなりましたが、時々無性に聴きたくなります。
そんな時に、誰の演奏を選ぶかは結構難しくて、アルバムを手に取り、その演奏を思い出すとアルバムを元に戻す事になります。
アバドとウィーンフィルのLP盤は好きで、レコードをかける余裕がある時にはこれを取り出します。
最近話題になっているのは、テオドール・クルレンツィスとムジカエテルナのアルバムです。
アルバムが発売されてから間もなく手に入れて、仕事をしながらのながら聴きを何回かして、CDの棚に入れてしまいました。
ヘッドフォンをSTAXのSR-407からSR-L500に変えて、その深い低音が気に入り、いくつかのアルバムを聴き直す中で、クルレンツィスの「悲愴」を思い出し、再生してみました。
何より驚いたのが、散々聴いてきた「悲愴」が初めて聴いた曲の様に聴こえた事です。
アンサンブルとして音の塊になって聴こえてきた音楽が、パート毎に完全に分離して聴こえてくる面白さ!
作曲家が曲を譜面に落とす時、どのパートも役割があるはずです。
それが聴き取れない演奏の何と多いことか!
録音の技術もあるのかもしれませんが、クルレンツィスの演奏からは、音符の全てが明瞭に聴こえてきます。
クルレンツィスが、各パートの強弱を絶妙にコントロールしているのは当然ですが、ムジカエテルナのメンバーが、自分のパートの役割を指揮者と同じレベルで理解しているからこそ出てくるサウンドの様に思います。
そういえば、ムジカエテルナの弦楽器は、立って弾きますね。
このスタイルは、たまに室内楽で見ますが、音楽に躍動感が生まれるので、生きた音楽を聴いた感じがします。
ヴァイオリン協奏曲のソロが立って体全体で音楽を表現するのと同じ事を数十人でやるわけですから、ちょっと想像しても、ダイナミックかつ繊細な音が飛び出す様に思います。
こう考えると、クルレンツィスが、ベルリンフィルや、ロシアのオーケストラを振った時同じ音楽が生まれるのか、大変興味があります。
NHK交響楽団を振ったらと考えると、ムジカエテルナだからこその音楽の様に思います。