「萩焼」の「坂家」について調べてみました。

 

これ(↓)は萩焼の茶碗です。

 

 

陶器としては薄く、簡素な姿をしています。

 

 

箱書きには「六代坂新兵衛」の文字があります。これを鑑定した人の名前として「十一代坂高麗座衛門」の名が見られます。

 

 

この2人は、どんな人なんだろう?

 

こうやって、これまで知らなかった陶芸の世界にズブズブとはまっていきます。

 

調べてみると、秀吉の文禄・慶長の役にたどり着きました。

 

萩藩の初代藩主毛利輝元の命により、朝鮮の陶工「李勺光・李敬」の兄弟が開いた御用窯から始まったのが萩焼でした。

 

当時は萩焼とは言わず、地名をとって「松本焼」「深川焼」と呼んでいたようです。

 

弟の李敬は、1625年(寛永2年)に2代藩主毛利秀就より「坂高麗左衛門」の和名を受け「坂家」が始まりました。

 

通称では初代、2代、5代、7代が「助八」と名乗り、3代、4代、6代、8代は「新兵衛」を名乗りました。

 

「高麗左衛門」を名乗ったのは明治に入って9代目からです。

 

6代坂新兵衛は、1722年(享保7年)年に生まれ、1803年(享和3年)に亡くなりました。

 

この箱書きには「寛政」の文字が見えます。

 

寛政年間は1789年から1801年です。

 

歴史で習った、寛政の改革(松平定信) が行われた時代に作られた陶器なんですね。

 

11代坂高麗座衛門(1912年~1981年)がこの箱書きをした年号として「庚子(かのえね)」とあります。干支で年号を表しているのですね。

 

調べてみると、「昭和庚子」は昭和35年であることがわかりました。

 

11代目が高麗左衛門を襲名して3年目の年の箱書きをということになります。

 

萩焼は、大道土と釉薬の加減で表面に出来る細かなひび割れ(貫入)が特徴的です。

 

 

 

この貫入によって、お茶を入れた時に染み込み、表情が変わっていき、これを「萩の七化け」と言うようです。

 

そんな事を知ってみると「萩焼」は、床の間に飾っておいたり、箱に入れてしまっておくのではなく、実用品として使い込み、その変化を楽しむべき茶碗なのでしょうね。