こんばんは!福岡で拠点長・柴田くんと共に奮闘している北村です。


さて、この休みでついに観ました!
『君の名は。』!!

 

 

 

もともと新海監督の作品は好きでしたが、
今回は、話題性もあるとのことでずっと観たかったのですが、
やっと観に行けました。


そして、内容は・・・本当に素晴らしかった!

 

ストーリーの設定もさることながら、
所々に差し込んでくる布石や
絶妙なタイミングであわせて来るRADWINPSの曲、
我々日本人だからこそ敏感に感じる要素や設定を
交えてくるところとか・・・

 

今までの新海監督の良さに加わて、
より分かりやすくまとまっていると感じました!

 

普段は本が苦手な私も小説まで買って読んでしまいました・・・。
もう本当にいい作品でした。


ただ、映画を観終わった瞬間は、
若干私は不満でした。

それは、映画館を出る時。

恐らく一緒に観ていたであろう他の人たちが
『君の名は。』の感想を言っているのです。

「いや~、なんかよかったね!」
「うん、なんか楽しかった!」
「私、なんか泣いちゃった~」

とかの感想・・・。


はぁ???

 

 

何がよかったの??
何がワクワク楽しかったの??
どこが泣けるポイントだったわけ???


新海監督の作品を「なんか」で片付けるな!
という不満でした
↑うざいですね。だから口には出してませんよ汗

 

でも、それは、私の信条の中に
『言葉にできないのは、理解していないと同じ』
というものがあるからなんです。

 

仕事柄、何かを言葉にすることが多いこともありますが、
たいていの人は「なんか」というフィーリングが多い。

でも、この「なんか」という言葉は便利すぎて
実は伝わるようで、全然伝わらないことが多いです。
※同じシンパシーを持っていると伝わることもありますが笑

 

“なんとなくわかっている”ことは、
“ちゃんとわかっている”ことは、全く違うからです。


私の場合、何か言うことがない時ほど、
「なんか」とか「感じた!」という言葉で濁します。


昔、よく知り合いの芝居を見に行った時に
知り合いから「ね~、俺どうだった?」と言われていました。

 

でも、正直、ずば抜けて演技が上手いならまだしも、
こっちも芝居の内容を観ているから、
そんな個人の演技見てないよ、と内心思うわけです。

 

そういう時に限って「いや~なんかすげーよかったよ」と言ってあげると、
特にその言葉に重みはないのに、相手は「マジで?」と喜んでいました。
その薄っぺらさが本当に嫌いでした。

 

そんなこともあり、元来何か作品を見た時に
「なんかよかった」みたいな抽象的な感想を言う人を
あまり好きではなかったのですが・・・

 

今回、ちょっとだけ変わりました。

 

それは、新海監督のインタビュー映像で
新海監督自身が映画を製作しようと思ったきっかけのエピソードが
語られていたことでした。

「高校時代に見た夕日がとても綺麗で、
 なんだか知らないけど涙がこぼれてきて感動したんです。
 そんな感覚を人々に伝えたいと思って」

と言っていました。。。


・・・あれれ??

 

作者である新海監督が説明できない“何か”に可能性持っているじゃん!
と衝撃的でした。

 

むしろ自分が変に説明しようと、曲がって作品を捉えていたのではないかと。

 

確かに、夕日の美しさって感動します。
すさまじい雄大な自然の景色とかって心が動かされます。

でも、それをなぜ感動するのか説明しろというのは、
それこそ、なんとも薄っぺらいなと感じたのです。

 

ものすごくおいしい物を食べて、
「なぜこれがおいしいのか?」なんて語る必要もないし、
「いいから黙って食えよ!」って感じもします笑。

 

そう思うと、この世には説明しなくてもいいものや
説明できないものがあるのだなとやっと気付きました。

 

むしろ、説明しない方が価値になるものもある。

 


もちろん未だに
『言葉にできないのは、理解していないと同じ』
という信条も持っていますが、

 

それだけではないということがこの作品から
学ばせてもらえたな~という思いました。


読者の方にとっては、
「北村、何を当たり前なことを?」
と思われたかもしれません。

 

でも、この気付きは私にとっては大きいんです。

 

「説明できなくてもいいことがある」

 

そういうことも自分の辞書に入れながら、
この人生を今後も歩いていこうと思います。

 

明日は、2ヶ月前までは隣にいたのに、

最近ではずっとスカイプ会議ばかりの
桃川さんです!