シーズンが進み、
佳境にさしかかろうとしている。
グランプリシリーズも最終戦。
ファイナル出場者が決まっていく一方で、初戦前から怪我などの理由での欠場も目立つ。
「out in out in」
一喜一憂ならぬ、一憂一機、というところだろうか・・?
言い方としては好きではないけれど、出場ギリギリのラインの選手にとっては、
チャンスとなることもある。
トップレベルの選手たちと同じ舞台で戦えるという、チャンス。
自分の演技を、より多くの人に観てもらえるというチャンス。
そして、そこには
欠場した選手への思いもあるだろう。
いつも、思うことがある。
外野は所詮、外野なのだ。
どれだけ思いをはせても、
想像しても、推し測っても、
当事者の心の中など、わかりはしない。
まして、第三者というフィルターを通した言葉は、本来のニュアンスを失うことが多い。
こういう文章を書くとき、私は漢字や句読点、改行にも気を配る。
「こだわる」と言うほど重いものではないが、
どう書いたらぱっと見て伝わるだろうか、ということを考える。
それは、第三者に向けてというよりは、未来の自分に向けている。
その時々に感じている感覚を、ダイレクトに残したい為の作業だ。
自分のことなので、自分では解る。
端的に言えば、
「分かる」なのか「解る」なのか「判る」なのか「わかる」なのか。
ということ。
例えば、話している言葉を書き起こした時点で、書き手のクセや思想(あるいは能力)が入ってくるし、
句読点の位置でも変わってくる。
時数や時間の制限で、切り取られたり端折られたり。
そんなことは当たり前に行われる。
それが、媒体であり、
こういうブログとは大きく異なる部分だ。
そして
第三者のフィルターを通した言葉を主題に、色々と捏ね繰りまわすのが好きな方々もおられる。
それはもう、本来の姿ではないだろうに。
あれこれと、思考する。
良くも悪しくも。
私は、人を見る時、その立ち姿を見る。
言葉も大切ではあるけれど、その人がどんな姿勢であろうとしているかを感じようと努める。
もちろん、私が感じ取り切れないものは多々あるだろうし、
自分の器について、大した自信もないので、偉そうなことは言えないが。
それでも、受け取ったものは大切に自分の中にしまう。
そして、時折、伝わったものを別の形で伝える。
それが、私の「エール」だ。
推考は、必要か・・?
憶測は、当たり外れだけの自己満足じゃないか?
助言って何だ?
ただ、年齢を重ねただけの生き物は、そんなに偉いか・・?
同じ立場で、時間を積み重ねたことがあるか?
毎日を、目標を持って投げ出さずに続けたことがあるか?
自分の人生を振り返って、胸を張って、訓示を垂れるなら、
余程の厚顔無恥だろう。
結局、自分のアイデンティティを確立する為に、利用しているだけじゃないか?
自分が選んだことを、他人のせいにする。
そんな文章ばかりが踊っている事に、少々嫌気がさしたので。