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Solipsistと仲間たちのブログ

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  僕のブログは普通のものとはかなり違うらしい。かなり理屈っぽいのと、一回分が長いのとが、嫌厭される主な理由のようだ。理屈っぽいのは、僕ができるだけ解り易く述べることで、読者を陳腐な常識から連れ出して、考え方の冒険の楽しさを味わってもらうことで、何とか克服したいと思う。また、一回分が長すぎるのは、できるだけ短く文節を区切って、それぞれに適切な見出しを付けることでかなり改良されるだろう。

 ところで、「人間の育ち方について」なぞというブログを何で僕が書き始めたのかという疑問が聞かれる。教育についての自分の考えが優れているからという自惚れはない。むしろ、自分の考えが普通とはちょっと違うのではないか、皆はどう思っているのだろう、という不安が大きい。そして最近、僕はもう相当な歳だからやがて死ぬだろうと気付くと、急に他人と違っているかもしれない僕の考えを何らかの形で手っ取り早く公表してみたい思うようになった。賛成を求めてはいない。下記のような観点に立った活発な議論が起こるのを期待しているのだ。というのは、世間に喧伝されている教育論には、教育する側について論じているものが圧倒的に多く、教育される側の育ち方については、教育の結果と見做されるにすぎなかったり、調査やテストの結果のような集団的な傾向として捉えられるのがせいぜいで、一人ひとりの人間の育ち方についてはほとんど論じられないからである。

 でも、人間の育ち方の筋道は一人ひとり別々で個性的である。それを一般的な発達段階でまとめると、個々の人間の発達を促進したり阻止したり退行させたりする具体的な動機や逡巡や挫折は捨象されてしまう。個人の思い出ではあれほど生々しく語られる出来事がその人の育ち方に意味をもたないわけがない。そこに視点を当てる立場はどこにあるか。生徒を集団として公平に扱わなければならない学校の先生にその立場に立つことを求めるのは無理だろう。やはり自然にその立場に立てるのは育つ本人とその親しかいないと思う。僕はそういう観点から人間の育ち方を見る人々の自由な交流のきっかけとなることを願って自分の考えをできるだけはっきりと述べようと思っているのである。

(2012年4月30日)