≪知性による合理的な「創造的進化」≫
デューイが言っていることの意味をよく考えてみよう。彼は、主観と客観、意識と実在、心と物自体・・・という対立を否定した。そのことは、単に主観や意識や心から独立した客観や実在や物自体の存在を否定しただけではなくて、逆に客観や実在や物自体から独立した主観や意識や心の存在を否定することでもあった。つまり、彼が積極的に主張したのは、主観と客観、意識と実在、心と物自体の不可分と共在という事実だったのである。そして、彼はその不可分の状態にある全体を「経験」として捉えたのである。
したがって、新しいことを認識したり考えたりする知性の働きも、それが実行されるのでなければ、現実に変化を引き起こすことにはならない、という従来の考え方は否定され、新たな認識や考えは「経験」という全体に起こった新たな変化なのだということになる。認識も考えもすべてを含む全体にこれまでになかったものを付加するのだから、まさに「創造的進化」というに相応しい。だが、それはベルグソンの言うような非合理のエラン・ヴィタール(生命の飛躍)によって産み出されるものではない。デューイの考えでは、それはあくまでも合理的な知性の働きなのである。知性は、新たな発見や新たな考えを産み出すだけでなく、それらを内部に矛盾なく位置づける新たな全体を創り出す働きなのである。そのような創造的知性の存在を事実として確認し、その働きを明確に描き出すことこそ、デューイが正面に見据えた課題だったのだ。
≪他律的因果関係からの自律的知性の自立≫
知性の創造性は他律的因果関係からの知性の自立を前提としている。デューイは、1886年春に発表した論文:『精神と身体 Soul and Body』 (前掲 Early Works of J.Dewey vol.1)で、ヴントの『生理学的心理学綱要』等からの引用に基づきながら、そのことを事実として明らかにている。
<心の身体への目的志向的内在> デューイは、先ず、心と身体との関係といういわゆる心身問題について、デカルトが両者を松果腺で結びつけたような考え方を排して、「心的なものは生理的なものに遍く均等に homogeneously 関係している」とか、「内在 immanent している」とか言い(同前書 p.96)、さらに、その内在が目的志向的 teleological であると言う(同書 p.98)。解りにくい言い方だが、要するに、知性のような心の働きは、脳のような身体の一部の働きとして存在するのではなくて、様々な組織にまたがる関係として成り立ち、目的志向的に調節されている、という考えである。
<唯物論と進化論に対する批判> このようなデューイの考えは、当然、唯物論や進化論に対立することになる。両思想に対する彼の冗漫な批判は以下のように要約することができるだろう。唯物論に対する批判は、それは物理的因果関係によってすべてを説明しようとするけれども、それでは目的に向かう行為を指導する心の働きという事実を説明することはできない、にもかかわらず、敢えてその事実を物理的原理によって説明しようとすれば、物質そのものの有目的性を認めざるをえないが、それは唯物論そのものに矛盾することになる、というのである(同書, pp.100-101).。そして、進化論に対する批判は、この説はある偶然の結果に至った機械的過程を目的に向かう過程と見做すのであって、科学が確認した諸法則を目的を目指す過程と言い換えているに過ぎない、というのである (同書,pp.102-103)。
以上のような両思想に対するデューイの批判の論点は目的に向かう過程の存否という問題ではなかった。ある過程が向かう結末を結果と呼ぶか目的と呼ぶかは言葉の問題であって、事実の問題ではない。デューイが問題としたのは、既存の過程の延長上にない新たな目的を創出する知性の自律性を認めるか否かの問題だったのである。彼が知性の「目的論的内在 teleologically immanent 」と言ったのはまさにそのことだったのである。
<心的過程の自律性の確認> 物理的、生理的過程の延長として心的過程があるわけではない。このことをデューイは、刺激が感覚を決定するのではないという事実によって次のように説明している。「感覚は刺激なしには決して生じないが、刺激から生ずるのではない。感覚は、神経過程からその機会 occasion
を得るのであって、その原因 cause は心の内部から得るのである。物質的過程は心を呼び覚まし、活動へ駆り立てるが、心はそこで、自発的に、それ自体の法則によって、それ自体の中から、感覚を発現するのである。」と(同書、p.106)。これは一種の機会原因論であるが、それは心的過程を物質的過程に関係づけるよりも、むしろ逆に両者を切り離し、心的過程の自律性を確証するために引用されているのである。
<心の身体への内在と超越> 以上のようにして心的過程の自律性を確認したデューイは、さらに、ヴントが明らかにした実験的データに拠りながら、心の諸機能が身体の諸組織にいかに配置されているかを論じている。先ず、身体の様々な構造が、様々な能力や傾向をもつ心の分化した器官となっていることを明らかにする(同書、pp.108,109)。次に、心的機能の身体への内在について、それは特定の器官に局在するのではなく、多器官にまたがる関連によるのであるから、具体的で単純な機能の局在は比較的にはっきりしているが、諸関連を含む高次の機能の身体への内在は広範囲にわたるので、はっきり限定することはできない、と論ずる(同書、p.p.109,110)。そして最後に、そのような心の働きの身体への内在は、身体の側から決まるのではなくて、身体を超越した精神から行動を通じて身体に学び取られるのである、と言い(同書、pp.110-111)、そして、この心的作用の身体への具現 localization of funcution という現象から精神の内在 immanence と超越 transcendence という本質が明らかになる、とまとめているのである(同, p.112)。
<合理的知性の実在> 精神の身体への内在は極めて具体的で解り易い。だが、精神は身体にもともと在ったわけではなく、身体が創り出したわけでもなく、超越的精神から学び取られたものだということになると、ひどく観念的で非現実的なことのように思われる。超越的精神はどこにあり、どのようにして個人に学び取られるのだろうか。デューイはそれをキリスト教の信仰に結び付けてこの論文を終わっている。だが、よく読むとそれだけではないことが分かる。彼は合理的知性の創造的活動の社会的様相について次のように述べている。「希望をもとう。19世紀の英語圏のために哲学研究を請け負った科学者たちの上にすべての思想の統一という理念が遂に輝き始めたということに。そして、全ての科学的推理の基礎において成り立つことは哲学的推理の基本原理においても成り立つことになることを彼らが認めることになるだろうということに」と(同書,p.105)。物理的因果関係から自由な合理的知性の現実的な働きにデューイが注目し始めていることがよくわかる。
2012年6月30日