(タイトルを変更しました。最初に『人間の変わり方について』としたのは、最近の若い人達がわれわれとあまりにも違うことへの驚きと、それが教育よるだけのものではないことを明らかにしたかったからでしたが、『変わり方』では意味が広すぎると思われたので、『人間の育ち方』に変更しました。加速化する人間の変化への驚きは表せませんが、その変化が教育よりも、むしろ育つ本人自身の働きによるのだという意味ははっきりしたと思います。)
前回のブログでは、生まれたばかりの赤ん坊は、世の中のことを何も知らないから、いろいろ教えてやらなければならない、という常識的な考えの背後に、意識と実在、内心と外界、個人と社会、等々という本来的な対立を前提とし、両者の関係の発達として経験や認識や教育や学習を説明する近代思想一般の考え方が根強く残っていることを指摘した。だが、果たしてこのような非社会的存在の社会化という考えは正しいだろうか。今回は、それを正面から否定する新しい考えが成り立つことを明らかにしようと思う。
新しいと言っても十九世紀の終わりから二十世紀の前半にかけてのことだからもうかなり旧い。その考えによると生まれたばかりの赤ん坊はすでに社会的存在だというのである。実は、アメリカの有名な哲学者、ジョン・デューイの思想はそのように解釈べきなのである。先ずその新しい考え方を端的に要約すれば、彼は、上記のような個々の人間の心と外的世界との本来的対対立という前提を最初から否定して、個々の人間の心はもともとは外的世界の中に芽生え、外的世界に包まれて他律的に連動している依存的状態にあるのだが、発達するにつれて次第に自律化を進めて、ついには個人の心として自立するに至る、ということになる。こういう考えを彼は多面にわたる多様な文脈の中で彼独特の晦渋な文体で展開している。先ずは、この考えを表す比較的解りやすい表現を引用してみよう。
(「もう時間よ」という家内の声が聞こえる。病院に行かなければなりません。前回から随分時間がたったり、このように中断したり、大変失礼いたしますが、帰ったらすぐ書き進めますのでおゆるし下さい。)