自分自身、若い頃から電気製品にはこだわりがあって、長い間Sonyの信奉者だった。
ビデオも初めて買ったのがBetaだったし、テレビもトリニトロンだった。
音楽系もWalkmanを長く何代も買い替えて使っていた。
でも、ある頃から新しいwalkmanを買わなくなってしまった。多分最後に買ったのはCD Walkmanだったと思う。当時のCD walkmanは音飛びが激しくて、持ち歩くには不便な代物でその後発売されたものは、音飛び対策として、データを先読みをして再生する機能がついていた記憶がある。
ただ、それも子供にやってしまい、自分はiPodに鞍替えしてしまった。
それは15年以上前にMacと出会ってからだと思う。
グラフィック系のデザイナーや音楽系の連中にとっては、実用としてのPCはMacと決まっていた。
世界のPCのほんの数%しかユーザーがいないのに、コアなユーザーとしてMacは使われ続けている。
実際に現在も自分が使っているのはMacbook Proである。
Appleのユーザーにとって、音楽を楽しむツールはiTunesでありiPodである。
どうしてもデジタル化された音楽コンテンツを管理するにはiTunesが便利でCDをiTunesにコピーしてiPodに取入れて色んなところに持ち歩ける便利さは、もはや他のツールに変え難いものがある。
そう、気がつくと音楽はSonyと思っていた固定概念がいつしかAppleに取って代わられてしまった。
Sonyにとって、音楽系でのiPodとの勝負はVHSで負けたと同じくらいの敗北であったと思う。
しかし、ユーザーからしてみれば、Sonyが持つCBS系の音楽コンテンツに限って、iTunesでのダウンロードができないし、Sonyのサイトからダウロードしたところで、iTunesには対応しておらずApple系の再生機では聴くことができない。唯一可能なのはCDを購入してiTunesにコピーする方法しか残っていないが、現在CDショップと云われるものがどんどん減少していて、マニアックな音楽コンテンツを購入する場が少なくなって来ている。以前は思い立ったらショップに行ってCDを購入していたが今はそれもままならない。唯一AmazonかSonyの通販サイトで購入するしか手立てが無いのも面倒な状況だ。
どうせ我を張ってSonyの持つコンテンツをガードしていても一向にこの局面は解決の糸口は無い。
以前はAppleユーザーのみのiPodであったが、現在はWindowsユーザーもiPodのユーザーになりつつあるし、iPhoneという強い敵も現れている。
もはや孤高を気取っているよりも、世界的な潮流に乗ってしまった方が今後のSonyの身の来し方も見えてくるのでは。過去にCDという記録媒体をフィリップス社と共同で世界標準にした時代のSonyの見識をもう一度思い出して欲しいと思うのだが。
先日のインターネットのニュースにはSonyのWalkmanの販売数がiPodを抜かしたとあった。
ただ、それも世の中の趨勢には勝てるものではなくて、ユーザーに対するサービスを考えると、今一度世界票中の統一を考えてもらえないものかと思ったりするのだ。
それにもうひとつ、Windowsだけでしか閲覧できないサイトもMacユーザーにとっては面倒な事だ。
まあそれも現在はインテルのCPUなのでWindowsをインストールしてブートキャンプでハイブリッドに使えば事足りるんだろうが、これもMacユーザーの永遠の問題だろう。
サイトにアクセスして情報を得ようとしても「あなたのOSでは閲覧できません」と出てくるのを見るに付けてうんざりしてしまうのだ。
夏の終わりを告げるしるしなのか
台風がやって来た。
あれだけ晴天がずっと続いていたのに
どうして今日に限ってこんなにもどしゃ降りなんだ?
ずうっと働き通しで、さすがに我ながら息切れ感がして来た今日この頃。
ちょうど今日はさしたる用件もなかったので、思い切って休業としてみた。
とは云っても、休業して家にいたらほとんどごろごろ寝て過す事になりかねないので
朝はいつもの通り「いってきま~す」と家をクルマで出てひとりでぶらっと出かけることにした。
東名用賀から東名に乗って厚木から小田原方面に乗り換えて、真鶴道路を越えて熱海から伊東温泉方面へ一気にクルマを走らせた。
昨日までの暑い夏の日差しがあれば、ここはさぞかしご機嫌な夏のドライブだったろうに、今日に限っては台風の影響で相模湾の海は灰色にどんよりしていた。
久しくこの辺りには足を向けていなかったのだけれど、久しぶりに来てみると、なかなかいいロケーションだと驚いた。真鶴道路も海岸線をすれすれで抜けて行くし、伊東につながる道路も眼下に海を見下ろせる最高な景色。ほんとつくづく今日の雨が悔やまれる。
まぁ、そんなことは仕方がないとして、伊東の手前の宇佐見の辺りに手頃な回転寿司屋があったので入ってみた。さすがに水曜日の昼下がりに客なんかいるはずもなくて、自分ひとり。
この辺りの回転寿司屋はどこも地魚を使っているのでどこも旨い。
特にこの辺りは「金目」が旨いのだ。
以前ロケで伊豆山の「蓬莱」という高級な旅館に泊まった時は「金目」のしゃぶしゃぶや「かます」の刺身が出て来た事があった。
普段は社員食堂の定食で始末しているのだが、今日ばかりは贅沢してやるっ!とちょっと欲張って
締めて¥2,500なり。ま、いいか(笑)
そこから伊東温泉を抜けて伊豆高原の先の「赤沢温泉」に「日帰り温泉」がある。
DHCが経営しているリゾートスパなんだけど、ここのロケーションもすこぶるいい。
値段も手頃で、バスタオル他すべて完備で ¥1,200(平日)
伊豆の海岸は切り立った断崖が多い。
その高台に建っているので、温泉の窓越しには眼下に海が見下ろせる。露天風呂はさながら海とつながっているような気になる。ここも晴れていたらホント最高だったろうになぁ。こんな天気で露天風呂に出てみたら、風が強くて大粒の雨と稲妻が光りまくっている。まぁこれも自然の風情でオツなもんでしょう(笑)
いやいや、それでも浸かれば少し塩っぱい温泉が身体に沁みるのだ。
肩まで浸かれば、おもわず、かまわずオッサンになって唸るのだ。
不思議なんだよね、温泉ってやつは。
いっぺんに何やら色んなところに溜まっていた「澱」が抜けて行くのが分かるんだ。
時々は来よう。食い物を贅沢しなければ、日帰り温泉なんて¥1,000~¥1,500くらいで入れる。
行き帰りの高速料金とガソリン代入れたってそんなにもかからないし。
大江戸温泉とか、都内のスパやサウナとかにも時々行くけれど、
やっぱりいい景色を眺めて入る温泉には叶わない。
伊豆にはここ以外にも日帰り入浴できる温泉がまだまだ結構ある。
ちょっと時間を作ってまた行こうかな。
誰にも邪魔されないひとりだけの小旅行、なんだかやみ付きになりそう。
帰りがけの熱海を見下ろす高台を抜ける道路からは、温泉街の夜景がとっても奇麗だった。
ちょうど、西の空がほんの少しだけ雲が切れて夕焼け空が顔を見せてくれた。
iPodから聴こえるTATSURO YAMASHITAの「さよなら夏の日」がとっても印象的だったな。
オレ独りだけど(笑)
夏の終わりを告げる頃、
ちょこっと心と身体の洗濯をして来た一日でした。
台風がやって来た。
あれだけ晴天がずっと続いていたのに
どうして今日に限ってこんなにもどしゃ降りなんだ?
ずうっと働き通しで、さすがに我ながら息切れ感がして来た今日この頃。
ちょうど今日はさしたる用件もなかったので、思い切って休業としてみた。
とは云っても、休業して家にいたらほとんどごろごろ寝て過す事になりかねないので
朝はいつもの通り「いってきま~す」と家をクルマで出てひとりでぶらっと出かけることにした。
東名用賀から東名に乗って厚木から小田原方面に乗り換えて、真鶴道路を越えて熱海から伊東温泉方面へ一気にクルマを走らせた。
昨日までの暑い夏の日差しがあれば、ここはさぞかしご機嫌な夏のドライブだったろうに、今日に限っては台風の影響で相模湾の海は灰色にどんよりしていた。
久しくこの辺りには足を向けていなかったのだけれど、久しぶりに来てみると、なかなかいいロケーションだと驚いた。真鶴道路も海岸線をすれすれで抜けて行くし、伊東につながる道路も眼下に海を見下ろせる最高な景色。ほんとつくづく今日の雨が悔やまれる。
まぁ、そんなことは仕方がないとして、伊東の手前の宇佐見の辺りに手頃な回転寿司屋があったので入ってみた。さすがに水曜日の昼下がりに客なんかいるはずもなくて、自分ひとり。
この辺りの回転寿司屋はどこも地魚を使っているのでどこも旨い。
特にこの辺りは「金目」が旨いのだ。
以前ロケで伊豆山の「蓬莱」という高級な旅館に泊まった時は「金目」のしゃぶしゃぶや「かます」の刺身が出て来た事があった。
普段は社員食堂の定食で始末しているのだが、今日ばかりは贅沢してやるっ!とちょっと欲張って
締めて¥2,500なり。ま、いいか(笑)
そこから伊東温泉を抜けて伊豆高原の先の「赤沢温泉」に「日帰り温泉」がある。
DHCが経営しているリゾートスパなんだけど、ここのロケーションもすこぶるいい。
値段も手頃で、バスタオル他すべて完備で ¥1,200(平日)
伊豆の海岸は切り立った断崖が多い。
その高台に建っているので、温泉の窓越しには眼下に海が見下ろせる。露天風呂はさながら海とつながっているような気になる。ここも晴れていたらホント最高だったろうになぁ。こんな天気で露天風呂に出てみたら、風が強くて大粒の雨と稲妻が光りまくっている。まぁこれも自然の風情でオツなもんでしょう(笑)
いやいや、それでも浸かれば少し塩っぱい温泉が身体に沁みるのだ。
肩まで浸かれば、おもわず、かまわずオッサンになって唸るのだ。
不思議なんだよね、温泉ってやつは。
いっぺんに何やら色んなところに溜まっていた「澱」が抜けて行くのが分かるんだ。
時々は来よう。食い物を贅沢しなければ、日帰り温泉なんて¥1,000~¥1,500くらいで入れる。
行き帰りの高速料金とガソリン代入れたってそんなにもかからないし。
大江戸温泉とか、都内のスパやサウナとかにも時々行くけれど、
やっぱりいい景色を眺めて入る温泉には叶わない。
伊豆にはここ以外にも日帰り入浴できる温泉がまだまだ結構ある。
ちょっと時間を作ってまた行こうかな。
誰にも邪魔されないひとりだけの小旅行、なんだかやみ付きになりそう。
帰りがけの熱海を見下ろす高台を抜ける道路からは、温泉街の夜景がとっても奇麗だった。
ちょうど、西の空がほんの少しだけ雲が切れて夕焼け空が顔を見せてくれた。
iPodから聴こえるTATSURO YAMASHITAの「さよなら夏の日」がとっても印象的だったな。
オレ独りだけど(笑)
夏の終わりを告げる頃、
ちょこっと心と身体の洗濯をして来た一日でした。
よその会社を覗いてみると、意外によく見える事がある。
当事者はその渦中にいるので、たぶん気がついていない事も多い。
やっぱり問題なのは人の管理に尽きる。
ほら、もうちょっと言葉を足せば理解できるのにとか
なんでそれをもっと早く云ってあげなかったの?ってことも多い気がする。
人を管理していて日々感じた事を
つれづれにまとめたものを時々アップしておきます。
・帰属意識をちゃんと持たせている?
・認めてもらいたいと思っている社員をちゃんと見ている?
・社長だけでなく社員もいい夢を見たい、幸せになりたいと思っている
・社員に生きる事の意味をちゃんと話している?
そのために働いているんだよと解いて聞かせる事ができますか?
・経営者と社員の意識の違いを埋めていく
・経営者は船長、社員は各部署で船を操作するスタッフ
・組織を作って満足している経営者や管理職がいる
その組織の中の人たちをうまく動かしてこそ将棋になるのに
そこに司令官がいないのだ
・不況だからこそ新卒は採用すべき。優秀な新卒は鍛える人次第で1年半でモノになる
・優秀な新卒を採用するには、そのためのコネクションを作ること
・企業理念が本当に社員に浸透していると思うか?
あなたの会社に血肉の通った企業理念はちゃんとあるか?
・制作会社に製造販売という意識はあるか?
・製販一体という意識。作れば金になると思ってはいないか?
・モノは作っても良くなければ買ってもらえないのだということを理解させる
・美味しくないものを作って、なんで買わないんだと怒る店主は馬鹿だろう。
それはよく分かると思う。デザインがまずいのに文句を言われて怒る奴がいる。
それはお門違いというものだ。
・社員も自立型を目指さなければ幸せになれない
・社員に与えるタスクが高すぎると挫折するものが続出して、組織が活性化されない
・云う事を聞かない社員の気持ちを理解してみる。考えが甘かったり広がりがなかったり。
でも社長の気持ちを分からないはずはないと信じてみる事だ。
当事者はその渦中にいるので、たぶん気がついていない事も多い。
やっぱり問題なのは人の管理に尽きる。
ほら、もうちょっと言葉を足せば理解できるのにとか
なんでそれをもっと早く云ってあげなかったの?ってことも多い気がする。
人を管理していて日々感じた事を
つれづれにまとめたものを時々アップしておきます。
・帰属意識をちゃんと持たせている?
・認めてもらいたいと思っている社員をちゃんと見ている?
・社長だけでなく社員もいい夢を見たい、幸せになりたいと思っている
・社員に生きる事の意味をちゃんと話している?
そのために働いているんだよと解いて聞かせる事ができますか?
・経営者と社員の意識の違いを埋めていく
・経営者は船長、社員は各部署で船を操作するスタッフ
・組織を作って満足している経営者や管理職がいる
その組織の中の人たちをうまく動かしてこそ将棋になるのに
そこに司令官がいないのだ
・不況だからこそ新卒は採用すべき。優秀な新卒は鍛える人次第で1年半でモノになる
・優秀な新卒を採用するには、そのためのコネクションを作ること
・企業理念が本当に社員に浸透していると思うか?
あなたの会社に血肉の通った企業理念はちゃんとあるか?
・制作会社に製造販売という意識はあるか?
・製販一体という意識。作れば金になると思ってはいないか?
・モノは作っても良くなければ買ってもらえないのだということを理解させる
・美味しくないものを作って、なんで買わないんだと怒る店主は馬鹿だろう。
それはよく分かると思う。デザインがまずいのに文句を言われて怒る奴がいる。
それはお門違いというものだ。
・社員も自立型を目指さなければ幸せになれない
・社員に与えるタスクが高すぎると挫折するものが続出して、組織が活性化されない
・云う事を聞かない社員の気持ちを理解してみる。考えが甘かったり広がりがなかったり。
でも社長の気持ちを分からないはずはないと信じてみる事だ。
その当時、弟が大学生で東京に暮らしていて、わずか2年ばかりだけど同じ東京に暮らしていた。ただこちらは忙しく働いていたし、向こうは生活費を捻出するためにバイトで忙しかったり、同じ東京にいるくせにほとんど会った事がなかった。だいたい男兄弟なんてものはそうそう示し合わせて会ったりはしないもので、京都に帰省したときに会うくらいだった。
その弟が下宿をしていたのが世田谷の豪徳寺だった。
就職が決まって会社の赴任地が富山ということだったので、「もし良かったら兄貴、ここ入る?」と声を掛けてくれた。大宅さんに相談したら、まあ兄弟なのでそのまま入ってもらってもいいですよと好意的に云ってくれたので、これ幸いと即決で行徳の独身寮から豪徳寺に引っ越す事にした。
寮に帰って食堂に集まっている後輩達に「オレ、寮出ることにした!」と宣言したが「えぇ~そーなんですかぁ」とは一言も帰ってくれなかった。自分たちの下が二年立て続けに大量に東京支店に赴任して来たので、空き部屋が少なくて二人部屋にされていた後輩達は、これ幸いとばかりにとっても嬉しそうな顔で「いつ出るんですか?」とみんな聞きに来た。まぁ、そんなもんだよな。これであの水っぽいカレーともおさらばだし、沼地を見る事もなくなるかと思ったら嬉しくて仕方がなかった。(とはいってもその半年前くらいから、週末は寮にも帰らずに彼女のアパートに転がり込んで飯を食わせてもらっていたが・・・)
その下宿は豪徳寺の駅からは1分と条件は抜群だが、大宅さんの大きな家の庭に建っている学生下宿で、四畳半共同便所の昔ながらのアパートだった。小田急線の真横に建っていたので電車が通ると揺れるわ、隣りの学生がコンビニの袋を明ける音すら聞こえるくらいの薄い壁で柱と壁のあいだに隙間があるので隣りの光すら漏れてくる。も小さなキッチンが付いているだけの、その当時ですでに築30年以上も経っている年代物だった。外に取り付けられた鉄の階段を上って靴を脱いで玄関を上がると下足箱があって、黒光りした廊下のいちばん端っこの部屋だった。窓を開けると下には大宅さんの庭が見えて、その向こうには小田急が通って行くのも見えた。
しかし、贅沢を言えばきりがない。物件探しをする手間もなくて、弟が家財道具をそのまま置いて行ってくれたのでそのまま引っ越せばその日からすぐに暮らせるとあって、即答で寮を出る事に決めた。
会社のキャラバンを借りて、家財道具を一式積み込んで、同僚のみんなにさよならして三年間悲喜こもごもあった行徳の独身寮を後にした。
三年も暮らしていると六畳一間とはいえ、色々なものが増えた。秋葉原でローンを組んで組み立てた大きなステレオセットや、実家から持って来たギターが二本。弟がすべて置いて行ったので四畳半のアパートにこたつが二つも存在したり。だぶったものは実家に送り返すことにしたが、確かに六畳の荷物を四畳半に詰め込むのは元々無理な話なんだけれど、そこを無理矢理押し込んでコタツを置いたら畳がB3一枚くらいしか見えなくなってしまった。でもあらゆるものが身体を動かさずに操作できるのは至極便利だった。ただ、さすがに荷物を持ち出す時にこれはどうしても無理だなと分かったのが独身寮で使っていたパイプベッド。仕方なく後輩にくれてやることにして寮の部屋に置いて行った。
夜、アパートの窓をあけて窓枠に座って西を見ると、意外にも新宿の高層ビル群の赤色灯が見えた。[路地裏の少年]
あんなにいやだいやだと思っていた寮なのに、いざ一人になって思ったのは、本当に東京で一人になってしまったんだと実感したことだ。帰っても後輩もいないし、寮母のおばちゃんもいない。隣りに住んでいる学生も誰だか分からないし、近所すべてが他人だということだ。かろうじて大宅さんが自分の事を知っているだけ。ああこれが大都会の一人暮らしというやつかと実感した。じゃあ寂しかったかというとそんなことはなかった。相変わらず仕事は忙しかったし、タクシーで帰宅する事も多かったし、アパートには帰って寝るだけの場所で生活は以前と変わらず仕事が中心だったから。ただ、夏は風呂がないので自転車で10分程の銭湯に行かなければならなかった。でもその銭湯は午前1時くらいで終わってしまうので、帰りが遅い時は隣りのコインシャワーとコインランドリーでシャワーを浴びて洗濯して帰ってくるのだ。時々かなり遅くなるとわざわざ自転車で行くのもかったるくなったりして、ちいさなシンクに水を溜めてそのなかに入って行水したりした。まあ独り者だから何したってオーケーなのだ。そういう気楽さも結構楽しいものだった。
そうこうするうちに、彼女の東北沢のアパートは二部屋あって斜め前が銭湯という絶好のロケーションだったので、週末は自然と彼女のアパートに「帰る」事となって、翌日の休みには歩いて下北沢まで行ってひながぶらぶらするのが日課になった。豪徳寺のアパートは荷物置き場のようになり、週末とは云わず自然と半同棲生活に入っていった。
つづく
その弟が下宿をしていたのが世田谷の豪徳寺だった。
就職が決まって会社の赴任地が富山ということだったので、「もし良かったら兄貴、ここ入る?」と声を掛けてくれた。大宅さんに相談したら、まあ兄弟なのでそのまま入ってもらってもいいですよと好意的に云ってくれたので、これ幸いと即決で行徳の独身寮から豪徳寺に引っ越す事にした。
寮に帰って食堂に集まっている後輩達に「オレ、寮出ることにした!」と宣言したが「えぇ~そーなんですかぁ」とは一言も帰ってくれなかった。自分たちの下が二年立て続けに大量に東京支店に赴任して来たので、空き部屋が少なくて二人部屋にされていた後輩達は、これ幸いとばかりにとっても嬉しそうな顔で「いつ出るんですか?」とみんな聞きに来た。まぁ、そんなもんだよな。これであの水っぽいカレーともおさらばだし、沼地を見る事もなくなるかと思ったら嬉しくて仕方がなかった。(とはいってもその半年前くらいから、週末は寮にも帰らずに彼女のアパートに転がり込んで飯を食わせてもらっていたが・・・)
その下宿は豪徳寺の駅からは1分と条件は抜群だが、大宅さんの大きな家の庭に建っている学生下宿で、四畳半共同便所の昔ながらのアパートだった。小田急線の真横に建っていたので電車が通ると揺れるわ、隣りの学生がコンビニの袋を明ける音すら聞こえるくらいの薄い壁で柱と壁のあいだに隙間があるので隣りの光すら漏れてくる。も小さなキッチンが付いているだけの、その当時ですでに築30年以上も経っている年代物だった。外に取り付けられた鉄の階段を上って靴を脱いで玄関を上がると下足箱があって、黒光りした廊下のいちばん端っこの部屋だった。窓を開けると下には大宅さんの庭が見えて、その向こうには小田急が通って行くのも見えた。
しかし、贅沢を言えばきりがない。物件探しをする手間もなくて、弟が家財道具をそのまま置いて行ってくれたのでそのまま引っ越せばその日からすぐに暮らせるとあって、即答で寮を出る事に決めた。
会社のキャラバンを借りて、家財道具を一式積み込んで、同僚のみんなにさよならして三年間悲喜こもごもあった行徳の独身寮を後にした。
三年も暮らしていると六畳一間とはいえ、色々なものが増えた。秋葉原でローンを組んで組み立てた大きなステレオセットや、実家から持って来たギターが二本。弟がすべて置いて行ったので四畳半のアパートにこたつが二つも存在したり。だぶったものは実家に送り返すことにしたが、確かに六畳の荷物を四畳半に詰め込むのは元々無理な話なんだけれど、そこを無理矢理押し込んでコタツを置いたら畳がB3一枚くらいしか見えなくなってしまった。でもあらゆるものが身体を動かさずに操作できるのは至極便利だった。ただ、さすがに荷物を持ち出す時にこれはどうしても無理だなと分かったのが独身寮で使っていたパイプベッド。仕方なく後輩にくれてやることにして寮の部屋に置いて行った。
夜、アパートの窓をあけて窓枠に座って西を見ると、意外にも新宿の高層ビル群の赤色灯が見えた。[路地裏の少年]
あんなにいやだいやだと思っていた寮なのに、いざ一人になって思ったのは、本当に東京で一人になってしまったんだと実感したことだ。帰っても後輩もいないし、寮母のおばちゃんもいない。隣りに住んでいる学生も誰だか分からないし、近所すべてが他人だということだ。かろうじて大宅さんが自分の事を知っているだけ。ああこれが大都会の一人暮らしというやつかと実感した。じゃあ寂しかったかというとそんなことはなかった。相変わらず仕事は忙しかったし、タクシーで帰宅する事も多かったし、アパートには帰って寝るだけの場所で生活は以前と変わらず仕事が中心だったから。ただ、夏は風呂がないので自転車で10分程の銭湯に行かなければならなかった。でもその銭湯は午前1時くらいで終わってしまうので、帰りが遅い時は隣りのコインシャワーとコインランドリーでシャワーを浴びて洗濯して帰ってくるのだ。時々かなり遅くなるとわざわざ自転車で行くのもかったるくなったりして、ちいさなシンクに水を溜めてそのなかに入って行水したりした。まあ独り者だから何したってオーケーなのだ。そういう気楽さも結構楽しいものだった。
そうこうするうちに、彼女の東北沢のアパートは二部屋あって斜め前が銭湯という絶好のロケーションだったので、週末は自然と彼女のアパートに「帰る」事となって、翌日の休みには歩いて下北沢まで行ってひながぶらぶらするのが日課になった。豪徳寺のアパートは荷物置き場のようになり、週末とは云わず自然と半同棲生活に入っていった。
つづく
20年程前の社会では、週休2日が完全に導入されていない頃で、今から考えると日曜日一日だけの休みでよく働いたものだと思う。
下働きの頃は、土曜日の明け方、這々の体で寮にたどり着いてベッドに倒れ込んで気がつくと外は暗い。まだ夜が明けていないのかと窓を開けると、近所から「サザエさん」の歌が聞こえて来た。
そうやって貴重な休みが毎週潰れていくのだ。
隣の同期のヤツはひょうひょうとした男で、会社でもうまく災難をくぐり抜けては早めに帰ってファミコンを遅くまでやっている。そんな隣の同期君は地元から車を持って来ていて、独身寮の駐車場に置いていた。隔週で来る週休2日には遠距離の彼女に会いにいくためにいそいそと出かけていく。その時に私の部屋のドアを開けて「オレいないからつかっていいよ」とクルマのキーを放り込んでいってくれる。
土曜日の夕方までぐったりとベッドで横たわってから、寮食のない休日の晩飯を食いがてら、あてもなく借りたぼろぼろのシビックで出かけたりした。
その頃、東京でクルマに乗るときはもっぱら会社のライトバンで撮影商品を取りにいったりするくらいで、それも都心ではなくて東京の周りにあるスーパーばっかりを廻っていた。新座、本庄、東神奈川、西新井、千葉の内房あたり・・・
なので、都心の道がよく分からなかった。
仕方がないので、行徳の寮から出て湾岸の千鳥町から乗って、ひたすら西に走って横浜に行くか、途中羽田に寄って飛行機を見るか、反対に東に走って犬吠埼までいくか・・・・
今ならiPodとかで、いっぱい好きな音楽をカーステレオにつないで聞くことができるけれど、当時のクルマはカセットレコーダーしか付いてなくて、SHOGO HAMADAのJ-BOYをなんとカセットで買ってそれをひたすら聞きながら憂さを晴らすように湾岸線をぶっ飛ばした。当時はまだレインボーブリッジもお台場もないので、ディズニーランドの周りとか横浜の山下公園や大黒や本牧あたりを夜中に流すくらいしか楽しみがなかった。[J-BOY]
2年目辺りになると、暮らしにも少しだけ余裕ができて、そういう環境でも楽しみを探せるようになって来た。東京に来た夏に、学生時代から付き合っていた彼女との遠距離に終止符を打って、独り身の寂しさから、とある女性と知り合った。
でも、こっちはしみったれた独身寮生活。それでもなんとか彼女の気を引こうと、下北沢の芝居小屋に誘ったり、展覧会に誘ったりと頑張っていた。
春のある日、彼女を誘ってみた。「海を見に行こう」と。
深夜に寮を出て、例のオンボロクルマを引っぱり出して彼女の住む世田谷の街まで迎えにいった。
彼女にお弁当を作ってもらって、真夜中の東間道をひたすら東に走った。高速を降りて利根川沿いをまた東へ走った。明け方のまだ暗いうちに犬吠埼の灯台の下までたどり着いたら岬は霧が立ちこめていた。
そのとき初めて灯台が鳴らす「霧笛」というものを聞いた。
夜明けを待って砂浜に下りて、太平洋から昇る朝日をふたりで見た。
[もうひとつの土曜日]
それから僕は、週末は彼女の世田谷のアパートに転がり込むようになった。
そろそろくそったれ独身寮ともおさらばする時も近いと思った。
つづく
下働きの頃は、土曜日の明け方、這々の体で寮にたどり着いてベッドに倒れ込んで気がつくと外は暗い。まだ夜が明けていないのかと窓を開けると、近所から「サザエさん」の歌が聞こえて来た。
そうやって貴重な休みが毎週潰れていくのだ。
隣の同期のヤツはひょうひょうとした男で、会社でもうまく災難をくぐり抜けては早めに帰ってファミコンを遅くまでやっている。そんな隣の同期君は地元から車を持って来ていて、独身寮の駐車場に置いていた。隔週で来る週休2日には遠距離の彼女に会いにいくためにいそいそと出かけていく。その時に私の部屋のドアを開けて「オレいないからつかっていいよ」とクルマのキーを放り込んでいってくれる。
土曜日の夕方までぐったりとベッドで横たわってから、寮食のない休日の晩飯を食いがてら、あてもなく借りたぼろぼろのシビックで出かけたりした。
その頃、東京でクルマに乗るときはもっぱら会社のライトバンで撮影商品を取りにいったりするくらいで、それも都心ではなくて東京の周りにあるスーパーばっかりを廻っていた。新座、本庄、東神奈川、西新井、千葉の内房あたり・・・
なので、都心の道がよく分からなかった。
仕方がないので、行徳の寮から出て湾岸の千鳥町から乗って、ひたすら西に走って横浜に行くか、途中羽田に寄って飛行機を見るか、反対に東に走って犬吠埼までいくか・・・・
今ならiPodとかで、いっぱい好きな音楽をカーステレオにつないで聞くことができるけれど、当時のクルマはカセットレコーダーしか付いてなくて、SHOGO HAMADAのJ-BOYをなんとカセットで買ってそれをひたすら聞きながら憂さを晴らすように湾岸線をぶっ飛ばした。当時はまだレインボーブリッジもお台場もないので、ディズニーランドの周りとか横浜の山下公園や大黒や本牧あたりを夜中に流すくらいしか楽しみがなかった。[J-BOY]
2年目辺りになると、暮らしにも少しだけ余裕ができて、そういう環境でも楽しみを探せるようになって来た。東京に来た夏に、学生時代から付き合っていた彼女との遠距離に終止符を打って、独り身の寂しさから、とある女性と知り合った。
でも、こっちはしみったれた独身寮生活。それでもなんとか彼女の気を引こうと、下北沢の芝居小屋に誘ったり、展覧会に誘ったりと頑張っていた。
春のある日、彼女を誘ってみた。「海を見に行こう」と。
深夜に寮を出て、例のオンボロクルマを引っぱり出して彼女の住む世田谷の街まで迎えにいった。
彼女にお弁当を作ってもらって、真夜中の東間道をひたすら東に走った。高速を降りて利根川沿いをまた東へ走った。明け方のまだ暗いうちに犬吠埼の灯台の下までたどり着いたら岬は霧が立ちこめていた。
そのとき初めて灯台が鳴らす「霧笛」というものを聞いた。
夜明けを待って砂浜に下りて、太平洋から昇る朝日をふたりで見た。
[もうひとつの土曜日]
それから僕は、週末は彼女の世田谷のアパートに転がり込むようになった。
そろそろくそったれ独身寮ともおさらばする時も近いと思った。
つづく