before the dawn

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夜を縦横無尽に 駆け抜ける クリエーター sei_jin が贈る 
夜明け前の独り言コラム

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喧嘩のやり方は殴る蹴るではいかにも蛮行だから、ちょっと頭を使うだけで効き目抜群の方法がいくらでもある。

韓国がいくら日本にエラそうな事を言って来ても、韓国の一番の弱みは昔からお金がないこと。だから強硬な事をやり始めたら「いいですよ、言いたい事言っていれば、お金貸さないですから」といえば韓国は何にも言い返せないはず。韓国は1990年代からちょっとした世界的なショックがあると、すぐに通貨危機の陥る。ウォンなんて通過は世界ではまったく信用されていない。だから資金援助や円借款を申し込まれても断固として断ればいい。たぶん韓国経済は麻痺してしまうだろう。ただしそのまま破綻させてしまうと日本経済にも波及する。だから絞め技一発、落ちる寸前まで締めてやればいい。昨年の野田との会談で通貨スワップを130億円から700億円に引き上げる約束をしている。それを反古にしてしまえばいい。あとは韓国国債を売っぱらうぞ!といえばいい。ところで世界では通貨を外交交渉の道具に使う事など当たり前であるが、これほどの武器を行使しないのは日本ぐらいだ。

小泉政権時代、「謝罪要求」とあわせてお金を貸せと云って来たときは、竹島近海に海上保安庁の巡視船を出して、不法操業の韓国漁船を取り締まり、韓国沿岸警備隊とにらみ合いをおこなった。その際韓国国内では排日運動が高まりを見せて、さすがに国内世論に遠慮してか、援助の申し入れを断念した経緯がある。意外に小泉はそういう韓国の弱みを利用していた。野田もそういうカードを切ってみれば意外に面白いはずだ。

ところで、日本が韓国に対して今までどれだけ経済援助して来たのか日本人はあまり知らない。

朴正煕政権時代に国交が正常化したとき、韓国からの対日請求権の主張に対して。日本側は日本統治時代に朝鮮半島に投下した資本や引揚者が残した財産が52.5億ドルある事で突っぱねた。1965年の日韓基本条約締結時に、その投下した資産を全て放棄し、かつ11億ドルの無償資金援助を行うことで一切の請求権は解決されていることを確認し合っている。現在に至るまでに日本への賠償請求が起こされているが、2009年にソウル行政裁判所による情報公開によって、韓国人の個別保証は日本政府ではなく韓国政府に求めなければならないとが国民に明らかにされている。

金大中政権の1997年、アジア通貨危機において韓国経済が破綻の危機に瀕したとき、IMFの管理下におかれ経済危機を脱したが、IMFはいわゆる後盾のない国家にはお金を貸すことはできないとして、日本に債務保証として100億ドルの準備を要請した。ただしこれは準備しただけで行使はされていないが、当時の韓国は日本が100億ドルの後盾を行ったからIMFからお金を借りることができたのだ。ただし、IMFの準備金の約30%は日本からの拠出であり、IMF管理下におかれ、韓国の借金を肩代わりしたIMFの資金の30%は日本の税金である。また2008年の韓国通貨危機では日本は韓国と300億ドルの無謀とも思える通貨スワップの協定を締結した。2002年ワールドカップ日韓共催時、施設建設費として7000億円の資金援助を行っている。韓国はその資金でスタジアムの建設やインフラ整備を行っている。それ以外でも1966年から1990年までのあいだに日本からは総額23兆円もの経済援助をおこなっている。1990年を境に日本は韓国をODAの対象から外したが、韓国は政権が交代するたびに大統領が訪日の際に「謝罪要求」を繰り返し、その都度日本は様々な経済援助を支払って来た。こうやってみてみると、韓国の国家としての基盤は(下水道整備などの都市のインフラを含めて)日本が供与した援助によって出来上がっているといってもおかしくない。韓国にはアジア最大規模の製鉄所がある。だがその技術は新日本製鉄100%で作られ、建設費はすべて日本のODA援助で賄われている。

現政権である民主党は昨年、通貨スワップを現行の130億ドルから700億ドルに拡充を決定し、さらに5兆円の経済援助を決定している。国内では消費税だなんだとお金の工面ばかりをせねばならないのに、喜ばれもしない隣りの国には大判振る舞い。困ったものだ。

これほどまでに隣国を助けて来ているにもかかわらず、韓国国民は自助努力で今の経済発展があったと信じているようだ。それは韓国政府を始め、韓国マスコミが一切を公表・報道していないからなのだ。

資金援助とは話しが違うが、民主党政権になってからの無為無策、言いなりの外交は惨憺たるものだ。菅政権時代、日本にある韓国の古い文化財が韓国から略奪されたものだから返還せよ要求して来たのに対して、謝罪と返還を約束してしまっている。
例えば高麗仏教画が日本にはたくさん存在するが、これは韓国から略奪されたものではなくて、正式に韓国からの贈り物として日本が貰ったものというのが歴史上証明されているものが多い。それは、李氏朝鮮が成立した時代、李氏朝鮮は儒教を国教としたために仏教を弾圧して、かなりの仏教寺院が打ち壊された。そこにあった仏教画は朝鮮にとってみれば、価値のないものであった為に朝鮮通信使などが来朝する際に贈物として日本に渡って来たのだ。それを豊臣時代から戦前までのあいだに韓国から盗み出されたものだと言いがかりをつけて来た。その経緯を知らない管は言われた通りに返還を承諾してしまっている。歴史に無知な元首がいると、このような失態をしでかしてしまうのだ。また略奪されたものだということで、韓国から強盗団が日本にやってきて各地の寺院から強奪されて韓国に持って帰られていることはあまり知られていない。盗んだ連中はすぐにお金に換えているので、略奪説を騙った只の強盗団であることが分かる。
 
 それから、夏が始まった。

 その年の夏は例年になく暑かった。
 僕たちは就職活動のために髪を切り、着なれないスーツに身を包んで暑い街を駆け回った。
 学生最後の夏は慌ただしく過ぎていき、秋風が吹く頃には、卒論や卒制の準備に追われる毎日が始まった。
 またアトリエに泊まり込みの日々が延々と続いて、僕たちは人生でいちばんかけがえのない時間を卒業していった。

 僕は就職のために故郷を離れて、東京に住むことになった。
 会社の総務から片道切符を渡されて、この日に赴任してくれと言われた五月の連休明けの朝、駅のホームには誰の見送りもなかった。
 親しい友だちには話しはしてあったけれど、もうみんな働き始めているのだから見送りになんか来るはずもなかった。それぞれが、それぞれの道を歩き始めていることを、改めて感じた瞬間だった。

 もしかしてと思いながら、新幹線がゆっくりとホームを走り始めても、デッキの窓からホームの人影を探し続けた。街が、色々な出来事がいっぱい詰まった見慣れた景色が、どんどん窓の外を過ぎて行く。
 そして新幹線がトンネルに入って窓の向こうが、まるでエピローグの後の暗転のように真っ暗になった瞬間、ああこれで僕の青春は終わったのだと思った。そして僕は、いつまでも暗闇の窓の外を眺めていた。
 そこには、髪を切ってネクタイを締めたひとりの僕がいた。



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こんな物語を書いていた事もありました。(途中抜粋)
 
 
 

以前にmixiにアップした日記を転載


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$Solid brass Design before the dawn

 
東京23区に現在も唯一米軍施設がある事をご存知か?
それも六本木のど真ん中に。

以前青山の事務所にいた頃は、夜であるにも関わらず、けたたましい轟音でなん度も上空を飛び去るヘリに驚いた。それは新聞社が運行しているベルやKHの類いの軽い音ではなくて、明らかに軍用ヘリのCH53Dシースタリオンなどのでかい音。半端じゃなくうるさい。ちなみに沖縄普天間基地近くの大学構内に墜落したのもCH53Dシースタリオン。青山を飛び越えて六本木ヒルズに向かって飛び去っていくのだ。何処に行くのだろうと気になって調べてみたら、結構面白い事がいっぱい出てきた。

以下一部調べたものを転用しながらご紹介してみよう。
そもそも六本木のど真ん中にある米軍施設とはハーディー・バラックス(Hardy Barracks, Tokyo, JAPAN, USARPAC)旧日本陸軍駐屯地に所在する「赤坂プレスセンター」と呼ばれている。この施設にはヘリポートあり、一泊12ドルの米軍人用宿泊施設や独身・家族用将校宿舎、自動車修理工場などがあり、軍事施設っぽさが比較的希薄な印象すら与える。だがハーディー・バラックスには、デュアル・ユーズ・テクノロジー、すなわち軍事転用が可能な、日本における最新の科学技術情報を収集する陸軍研究事務所極東事務所と海軍研究事務所アジア室、米軍準機関紙「星条旗新聞」、第500軍事情報群の「保全連絡分遣隊」、座間基地第78航空隊などをも擁する、れっきとした米陸軍施設であり、日本の科学技術・経済情報を収集する情報機関でもある。そのためヘリポートには、横田、厚木、座間の各基地からのヘリコプターが頻繁にやってくる。かのヒル米国務次官補などは、都内のホテルからここに移動し、ヘリコプターで米軍横田基地に行き、米軍機で韓国に向かったりしているらしい。現在、都道環状三号線(外苑東通り)の六本木トンネルの上にある。
ところがこの都道環状三号線の六本木トンネルを作るにもひと悶着あったらしい。ちょうど都道環状三号線の建設予定地の上がヘリポートで、米軍が現在使用している東京都港区六本木の米軍「赤坂プレスセンター」内の臨時ヘリポート用地約四三〇〇平方メートルは、一九八三年五月の日米合同委員会で、「赤坂プレスセンター」内の土地三九〇〇平方メートルを都市計画街路環状三号線の道路用地として東京都と米軍の共同使用にする代替措置として、東京都が公園として使用している土地の一部を米軍に追加提供し、環状三号線建設工事が完了したならば東京都に返還するということが合意されていた。 ところが米軍は、一九九三年三月に環状三号線の建設工事が完了したにもかかわらず、「赤坂プレスセンター」の臨時ヘリポートを返還しないという不当な措置をとり続けているというもの。さすが日米地位協定にて優遇されている米軍らしい。

そもそも六本木は戦前、軍隊の街だった。名残りが元防衛庁。戦前は「第一師団歩兵第一連隊」である。
「国立新美術館」が現在建っているところは「第一師団歩兵三連隊」通称「麻布第三連隊」と呼ばれていた。この三連隊兵営は、昭和三年に地上三階地下一階建てで、兵舎としては日本で初めての鉄筋コンクリート造り。1400人を収容できた。麻布の古い繁華街、麻布十番は一連隊と三連隊の兵士たちが休暇に繰りだす街として繁栄したらしい。「麻布第三連隊」といえば昭和11年2月26日、雪の降る早朝に営門から出動した第三連隊第六中隊の兵士たち158名が向ったのは前線ではなく、永田町を中心とする政府機関、重臣の邸宅。つまり二二六事件の反乱軍としてであった。上官の命令に従っただけの兵士達は以後、北支やノモンハンの激戦地に送られて生きて再びこの麻布の地に戻る事は無かったといわれている。ただ「第一連隊」はフィリピンへ送られ全滅に近い損害を受けた。
「第三連隊」は昭和十九年、沖縄防衛のために宮古島へ移駐。米軍の上陸作戦に備えたが、米軍は宮古島を素通りしてしまったため、ほとんど戦うことなく敗戦を迎えた。

戦後、一連隊、三連隊の兵舎は、どちらも戦後は接収されて米軍が使用していた。
一連隊跡は米陸軍騎兵第二旅団司令部、三連隊跡は陸軍騎兵第八旅団兵舎(通称・ハーディ・バラックス)となった。六本木がバタ臭い街として発達したのにはこれら米軍兵舎が至近にあったからである。
現在は一連隊跡の防衛庁が市ヶ谷へ移転、その跡地に「東京ミッドタウン」が、三連隊跡は「東大生産技術研究所」が駒場へ移転、その跡地に「国立新美術館」ができたのはご存知であろう。ただ、一部残された米軍施設が「赤坂プレスセンター」とうわけである。
2007年07月31日の日記を転載。
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Solid brass Design before the dawn




画家『オディロン・ルドン』。

私にはこの『ルドン』という画家が気になる。
多分長い付き合いになる。

 小さい頃の私は、実家の古い洋館建ての冷たい床に座り、
かび臭い美術全集をいつも観ていた。
緞帳の様なカーテンを引いた洋館は薄暗く、白壁やつり下げられたシャンデリアの装飾の真鍮、仰々しい額縁に飾られた風景の油絵、ヴィーナスの石膏像、ギシギシと音を立てる籐の椅子。
どれもみんな自分をじっと見ている様な一種異様な空間にひとりで座り込み、美術全集を開いてはこの『ルドン』に会いにきた。
 いつもそこに来ると、モノトーンで描かれた愛嬌のある変な生き物たちが私を迎えてくれた。

 『ルノアール』も『ゴッホ』も『ロートレック』も極彩色でとても綺麗に見えたけれど、この『ルドン』と『ビアズリー』が描く「サロメの挿絵」だけが何故か心を癒してくれた。

 結局いまだに描く絵はモノトーンばかり。
特に意識をしていたわけはないが、心の何処かに残っているのだろうか・・・
その断片が。


Solid brass Design before the dawn


この頃、心身ともにすさんでいた。
自分をハチャメチャにしておきたかったような気もする。

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西麻布を西へ走るタクシーのバックミラーに
夜明け前の微かに光り始めた青白い空を背景に
細い月が映っている。
随分と夜明けが遅くなったものだ。

散々な一週間をくぐりぬけて結構くたびれているくせに
そそくさとオフィスを後に、麻布辺りのカフェやバーを数件徘徊して
結局また朝を迎えてしまった。
憂さを晴らすなんていう中年親父の古惚けた気持ちは更々ない。
単に自分を知らない人たちの、乱痴気騒ぎや暗闇の中に
放り投げておきたかっただけで、そんな喧噪の中に身を置くほうが
いつのまにか気が晴れる。
これで、またもう一週間生き延びよう。