今のところ、小池知事に対するマスコミ対応は、おおむね好意的だ。
しかし、マスコミは、人気を高めておいて、次に一気に、批判や批判的悪口を繰り出すくせがある。人々が転落のストリーに興味を示すに他ならないからだ。
今は蜜月にある小池氏とマスコミだが、いつどうなるかわからない。
人気スターの薬物事件しかり、小保方事件しかりである。
マスコミが誰かを落とすためには、まずは持ち上げなければならない。
事件が起きた現場に居合わせた人からの証言と、マスコミ報道は、だいぶ様相が違うのであろうが、そうしたギャップを想像できる場合もあれば、できない場合もある。
群馬大事件などは、医師が失職したが、調査側がフェアであるとの証拠は、どこにもないと思う。小保方事件の、理研調査会もしかりである。
マスコミが悪と決めたものを、追従するような第三者(と称する)調査は、フェアなものとは信じられない。
しかし、マスコミ報道の方向性は、実に単純だ。逆に、その部分は、フェアであるとも言える。マスコミの報道価値は、真実かどうかより、一般の人々が興味を持つかどうかに焦点があり、報道の方向性が決まる。
つまり、人々の興味を引くか?引かないか?であり、お金になるか?、ならないか?である。
マスコミは、記事を売るために、悪者をしたてて、それに戦う勇者の構図をつくりたがる。誰かが、悪者扱いされて被害者になる。権力や技術を持つ者、医者や政治家は、容易に悪者(被害者)になる。そして、しばしば、マスコミの正義感として機能している。
マスコミの報道の方向性は、売れるかどうかが、すべてに優先し、編集長や記者間の個人的確執や長年の怨念も、お金の前にマスクされる。逆に、マスコミ関係者の人たちの間に功績、友情などがあっても、決して機能しない。マスコミ全体で、誰かをバックアップするなどはしない。
例えば、今回の鳥越俊太郎氏は、マスコミの花形スターであった。その彼が都知事に立候補したわけだが、彼に対するマスコミ攻撃は容赦なかった。
いわば、同窓生のような存在である鳥越氏を、マスコミ人たちはサポートしないどころか、コテンパンに突き落としたのである。
鳥越氏の問題点をひたすら隠したり、全マスコミ関係者の名誉にかけて、鳥越氏が社会のトップに立つべく優れた人であるとのアピールを、マスコミ人たちはしない。
むしろ、マスコミはいろいろと個人の情報をもっているので、それを大事な選挙期間中にばらまいたりできる。
それは週刊誌を売って、お金を稼ぐいう目的に集約される。
鳥越氏は、文春、新潮を訴えたが、もはや、その告訴の顛末に興味を持つ人はいない。決して、主要記事にはなったりはしない。
今のマスコミで、悪者的役割を押しつけられているのが反小池派である。
悪者の最たるとされた都連の内田氏も言い分もあるであろう。
彼は無言を保っているので、なおさら、実際の様相がわからない。
内田氏の価値観からすると、腹の煮えくる思いで、理不尽だと感じているとは思う。
しかし、内田氏を擁護してくれる人はでてこない。長く権力の座にいて、権力をふりまわすことが当たり前になってしまっていたのか?
真田丸の秀吉は、そうした権力の権化とした人間像が強調された演出である。
内田氏は黙って去るのが、男の生き方といわんばかりに、都連の理事長を降りるようである。石原氏も降りるようであるが、何も話さない内田氏とは異なり、石原氏はいろいろ恨みつらみを話し、谷垣氏の悪口も言ったりして、人間的な面がある。
しかし、本日の内閣改造で、石原氏は、再度、大臣の職につく。
「いままで石原慎太郎氏はいろいろ業績があったのに、今回の厚化粧発現で業績がかすむのは残念だ」との小池コメントは、男性から見ると、上から目線で女性からものを言われたと感じるだろう。こうしたコメントをすごく嫌う男性は少なくないと思う。
能ある女性は、爪を隠した発言も、爪を出す発言も嫌われるものである。
小池知事の就任後の記者会見で、都政の改革について、彼女は、「改革しようとする人間は、よそ者、若者、馬鹿者である」と言ったらしいが、これもおもしろい小池語録になるだろう。馬鹿なこと、経験がないことでも、正しいと信じることをやりますという意味にとれる。愚直でありたいということか?
小池氏が皮肉っぽく、このコメントを発したら、記者も負けずに、「改革には切れ者も必要では?切れ者による改革は?」などと、記者が突っ込んでくれたら、小池氏はどうかわすか?
一瞬の言葉のやりとりが、その人の性格を表すものだ。
聞いている方は、次の言葉を期待してドキドキしてしまう。