英国のEU離脱は、エリート層に対する大衆の反乱との見方がある。大衆は、国民投票で、既存権力を持つエリート政治家に対して反発したとの見方である。

しかし、扇動的な政治家の活躍があり、彼らが権力拡大をもくろもうと活動した背景があるようだ。つまり、大衆が主役というわけではなく、利用されただけなのか?

今回のイギリスのEU離脱は、仕掛け人がいた。独立党のファラージ党首のような扇動家たちである。彼は声が大きく、英語の発音も美しいので、たぶん上流階級の人だろう。

こうしたエリートたちが、将来的な展望もなく、苦しい政治的仕事を担う気もなく、人心を動かすことをおもしろがったのではないか?

いろいろな事件の背景は、社会的格差からくる人々の嘆きと怒りがあることはしかたないにしろ、大事なことは、こうした格差が政治的に利用されるということだろう。社会不安は、扇動家の権力掌握に利用されるのだ。

内外を問わず、事件の裏には、格差に対する人々の怒りやジェラシーがある。
世界中でおきているテロには、宗教感、正義感、平等感がねじまげられて利用されている。

日本では、枡添知事の辞任劇も、知事の特権に対する持たざる者の怒りが爆発したかたちだ。違法でなければ公私混同が許されると言いたいのか!との怒りである。

STAP騒動も、似たような側面があった。
STAP騒動において、攻撃されたのは、社会的に優遇されていると名ざしされた小保方氏であり、攻撃したのは大衆だ。

この事件で、問題視すべきは、大衆の怒りを意識的に煽る人たちがいたことだろう。
この構図は過去にはなかっただろう。エリート層の研究者たちが、社会を扇動したのである。

エリート層の研究者たちは、本来、象牙の塔にいて、そんな“衆愚”めいたことはやらないはずの人たちであった。少なくとも、人々をそう思っていた。

教授の肩書を持つ複数のエリート層の研究者たちが、声高にねつ造説を訴えた。
これを見聞きした大衆もマスコミも、専門家が言うのだから間違いない!と思ったのだ。学会も含めてこんなに熱心に専門家が言っているのだから間違いない!と大衆は信じさせられたのだと思う。小保方氏のねつ造行為は科学を冒涜したものだと、人々は信じた。

しかし、エリート層は、自己主張が強く、傍若無人になりがちな人がいることを思えば、象牙の内部は混乱したなんでもありの競争社会にすぎないことに気づく。脚光を浴びたあの日から、小保方氏は戦わなければならない人生になったのだ。非難の程度が大きすぎて、彼女は、その荷につぶされた。

この事件からも、大衆の怒りの背景には、それを操る人や組織に、注意を向けるべきと教訓を得ることができよう。

扇動者は、自分たちは安全な場所にいて、“衆愚”を利用する。STAP騒動において、エリート研究者は、マスコミを利用した。関係したのは、ごく一部の研究者にすぎないが、これだけ大きな事件として広がってしまうことがすごいと思う。

不正採用された小保方氏は税金を無駄に使った人であるとマスコミは騒ぎ、衆愚”を刺激した。マスコミとエリート研究者は、画像改変を拡大解釈させて、STAP捏造を拡散させた。

華やかな脚光を浴びた小保方氏と、その研究母体の神戸CDBへのジェラシーが正当化されたのである。科学的正義がでたらめに演出された。小保方氏は、これに対して反論できる立場にあったが、体力的にできなかったようだ。しかし、小保方氏はまだ、チャンスはあると思う。彼女流のやり方でがんばってほしいと思う。

話は変わるが、今回のバングラデッシュのテロも、日本の経済援助が、日本人がテロのターゲットとなったと言われる。日本人だからこそ、狙われたというのもすごいことであり、日本のこれからの危機管理が正念場という感じである。

総じて、大衆の怒りを利用する一部の人間の政治手腕が、歴史をつくってきた。

政治家にとって、多くの人たちを政治的に扇動できた時、最高のエクスタシーを感じるのではないか?と思う。
しかし、どんな約束にしろ、政治家の言葉というのは、辞任してしまえば終わりなのである。

米国のトランプ氏にも、“衆愚”を巻き込むのがうまい。彼が大金持ちであるにもかかわらず、大衆を扇動ができてしまうことがアメリカ的だ。日本人には理解しがたい。

実際にトランプ氏の演説を聞いていると、アイラブユーという言葉をリズミカルに使っている。同じような言葉の繰り返しが多い。
トランプ氏は、「どんな人でも、どんな組織でも、どんな場所でも、私(トランプ氏)は、大好きだ!」と大声で叫んでいる。難しい言葉は使わない。
こうした単純明快な演説が、米国人の心をつかんでいるのは現実なのだ。

こうしたトランプ旋風の行き先や、今後のイギリスのかじ取りはどうなるのだろうか?日本の教師になるのか、反面教師になるのか、見ていきたいものである。

大衆に深慮、遠慮の情報が入ることで、集合知の”衆愚”は暴走しないで済むことに期待したい。集合知の”衆愚”が活躍できる社会は、多様で新鮮である。