博愛主義の小保方氏は、誰かの役に立ちたいという理想を持つ人で、それに向かって努力する志向の女性でした。物事がうまく進まない時の小保方氏は、自分自身を責める人でした。

これは良い意味では、責任を他者に転嫁せず、さらなる努力を積み重ねられる原動力になるものです。しかし、悪い意味では、必要以上に自らを責め、本音とはかけ離れた心理状態に追い込み、心身を破綻させる危険があるものです。

つまり、本音では自らは悪くないと考えているにもかかわらず、自分自身が悪い!自分自身が悪い!と、自らに言い聞かせるように心をもっていく結果に伴う心の破綻です。これは、女性に時々みられる志向で、特に昔の女性はこうして、自我をひっこめようとしていたのだと思います。

小保方氏が、すべてを失っても、しばらく無言でいた期間は、相対する二つの心で葛藤していたと思います。
これ以上、訴えてもだめであるし、先生たちにも迷惑がかかるから、あきらめよ!とする心を自覚しながら、一方で、本音がわきあがり、このまま捏造犯として時が過ぎるのには耐えられないと苦しんだと思います。

しかし、小保方氏は、世間に身の潔白を理解させると心の舵を切りました。
それは当然のことです。幸い、告白本が企画され、告白本にすべての思いをぶつけました。
そして、ひとつひとつ悲しく悔しい思いを文章につづりながら、偽りの心から開放されたと思います。

告白本が世間からどのような評価を受けるかは不安だったでしょうが、どんなにたたかれても、捏造犯よりはまし!と決意したのでしょう。この思いは当然でした。

確かに、小保方氏は、周りの人から期待をかけられたままで、成人となったようでした。彼女の気持ちは、周りの人は私に期待している、だから、周りの人を傷つけないようにがんばらなければならない。そうしなければ周りの人に申し訳ないとのスタンスをずーと持っていたような人でした。

多くの人は、これほどの期待はされないし、他者に申し訳ないとの思いも薄いと思います。こうした他者の気持ちを優先する志向は、一般的に、リケジョにはめずらしいと思います。
他者から過剰に期待されたら、期待した方が悪いと、リケジョは、考える傾向があると思います。

アメリカバカンティ研での実験していた頃の小保方氏は、その実験成果を、PNAS(有名科学雑誌名)という一流紙に論文投稿をし、いいところまで進みながら、最終的にリジェクトされています。その時にも、共著者に悪い、ボスに悪い!としきりに書いています。
一般的なリケジョなら、思わせぶりをするPNASが悪い!が、メインの感情かと・・・。

このように、小保方氏は、まわりからとても期待されているという自意識過剰なところがあったようです。
バカンティ研は、臨床病院に付属した研究室であったため、研究がメインの理研とは規模もレベルも違っています。すなわち、バカンティ研はそれほど、すごい最新研究成果が出せるような規模ではないのです。
臨床診療の片手間に実験をやっていて、家庭的な雰囲気があり、上司は、ほめて医者の卵たちに仕事をやらせるタイプの研究室と思われます。・

そうした環境では、上司たちは内心はそれほどではなくても部下を最大にほめる傾向があり、小保方氏は期待されていると信じていて、盛んに、申し訳ない!申し訳ない!になってしまうようでした。

こうした彼女の優しさが、利権を競い合うSTAPトラブルに巻き込まれる危険をはらんでいたと思います。
若山研がSTAP現象を科学のレベルまでアップさせたからです。

こうして、STAPが利権につながる可能性が明らかになった後は、小保方氏を仲間に引き込む競争になりました。どこの研究所が彼女を引き込むことができるかで、理研(笹井氏、竹市氏、西川氏)、若山氏、バカンティ氏の間で、小保方氏争奪戦となったようです。

誰もが、小保方氏を引き込もうと、理研は小保方研の立ち上げを申し出、若山氏は山梨大での若山研のポストを提案し、バカンティ氏は、論文のシニアオーサーの立場を確保し、小保方氏の名前を2論文のファーストオーサーにして、若山研の貢献度を低くするなど、それぞれの人が、権利関係のバランスをとろうと画策しました。

純粋な小保方氏は、STAP幹細胞は若山研の貢献度が高いことを理由に、自らの論文にいれたくないとの希望はあったものの、タナボタの輝かしい業績にも目がくらんだところがあったでしょう。
それでも、ボスのためにがんばりたい!という利他主義が中心でした。

細胞を初期化するところまでが、自らの仕事と信じていたので、涙の記者会見の席でも「STAPは、200回作りました」との発言となったわけです。
こうした発言の意味について、本来ならマスコミなどが解説的な記事をのせるのが普通ですが、このSTAP騒動においては、好意的解説はなく、200回という回数だけが、小保方氏の嘘の証拠と結び付けられて、世間に広められてしまったのでした。

小保方氏も、記者や一般の人がどの程度に理解できているのかについては、見当がつかず、一般人もほとんど理解していなことを、小保方氏自身は自覚できなかったのです。

記者会見は、科学的に高度な質問が行きかい、出席した記者らは、誰もが専門的知識に精通していると、小保方氏は誤解しました。しかし、実際の記者たちの知識は付け焼刃的なものでしたから、もっともっと、小保方氏が原点にもどって解説的な話をする必要があったのです。

そうすることで、懸命に実験する小保方氏像が明らかになり、テレビ画面は、実験の詳しく状況をよどみなく話す小保方像を映し出して、小保方ワールド全開の様子が誰の目にも明らかになったはずです。

そうした様子を好意的に描いてくれるマスコミが、一社位あったかもしれません。
小保方氏は、マスコミをとりこむことにも失敗してしまいました。

されに、記者会見に出席した弁護士の弁がいまひとつでした。
弁護士の話している時間は視聴率も下がってしまいました。
告白本でも、小保方氏は、弁護士はすごく緊張していたと書いています。弁護士にとっても、すごく難しい仕事だったと思います。

小保方氏は、内心、頼りなさを感じたかもしれませんが、このストリーを一般の人が理解するのは、とてもハードルが高いのです。
なじみのない科学用語を、即座に自分の言葉にできる人などいないのです。そうした意味で、弁護士が記者会見に並ばなくても、彼女ひとりで十分に、その役目を果たせたのです。
アカデミアの世界では、論文を追及された時、弁護士が出てくれば、逃げたと思われてしまいます。

研究や実験は、結果がすべてであって、その途中経過を、他人に見せるなどは一般的でありません。つまり、研究の正当性を再現実験などで確かめるということは、極めて素人的発想で、実験者が思いつくようなものではないのです。

小保方氏の涙の会見の時にも、記者から再現実験はやらないのか?との質問が出ましたが、彼女は、記者の言葉に関心したかのように、唐突に「なるほど!」と答えたのです。この彼女の言葉は、「ありまーす」と同じように、インパクトがある言葉でした。

この言葉は、彼女が捏造などは思いもつかない人であることを雄弁に物語っていました。
小保方氏は、他人から疑われた経験など一切無く、他人を疑ったことなども無い人生を送ってきたことを如実に感じさせる言葉でした。

結局、小保方氏の利他主義とあいまった博愛的な心のあり方が、いたましくもネガティブに作用してしまいました。研究所のような弱肉強食の世界では通用せず、結局、彼女が悪意ある画策に巻き込まれてしまうのです。