何を言葉にしたらいいのか。
言葉を探しあぐねている。
だから浮かんだ言葉から文字に置き換える。
先日、福島の南相馬のに行かせていただいた。
原発の20km圏警戒区域(原町区南部/小高区)から先月ようやく解除された場所。
一年余り時を止められていた場所でもある。
被害にあった他の地域は少しずつ当時とは変わってきただろうに、そこはほとんどがまだ手付かずだったりと変わらない様子。
南相馬に着いて最初に伺ったのは今回お手伝いさせていただいた
福興浜団
のリーダーのご自宅。
初めてお会いするリーダーはとても温かい笑顔で気さくに声を掛け迎えて下さったのが印象的、それは終日変わることがなかった。
ただ。
海岸から程近い場所にあったご自宅は辛うじて二階部分が以前のカタチをとどめている程度で、メディア媒体で目にしてきたお家がそこにあった。
そして、玄関部分に汚れたオモチャやぬいぐるみがたくさん並べられていた。
その下には焼香台。
言葉を無くす。
そのお家の方が亡くなったのは誰が見ても一目でわかる。
後日知ったことだけど、彼は6人家族でそのお家に住んでいた。
あの津波でご両親と幼い女の子と男の子を一気に亡くされた。
残されたのは自身と奥さまだけ。
目に入れても痛くなかっただろう3歳の男の子は未だに見つかってない。
朝一番の作業は海岸付近を皆で歩く事。
行方不明の方々を探す為だ。
前日、頭部のご遺骨が見つかったと聞いた。
一瞬驚いたけれど、私も見つけたいと思った。
私の生まれ育った場所は小さな港があるような海沿いの町。
今回の津波のような被害が起こる可能性がある。
家族や恋人・友人が行方不明なのに一年の間探す事が出来なければ、どんなに強靭な精神力を持っていても無理だ。
私は耐えられない。
だから、早く家族の元へ帰らせてあげたいと思った。
そう思うと全く怖くは感じない。
結局、私は何も見つけられなかったけど小さな骨が見つかったみたいだった。
良かった。
場所を移して、メイン作業の津波にあったお家の泥かき。
今回のお家も大きかった。
建てて3、4年でしょうね。
きれいなお家だったんだろうな。
床下には30センチ程の泥で埋まっていた。
一年以上放置されていたから、他のボランティアさん曰く「今までにないくらいヘビー」だったそうだ。。。。
完璧とまではいかないけれども、手の届く範囲はほとんど綺麗になったと思う。
このお家のお父さんは私の父より歳が上の方だと思う。
国の許可が下りたら戻りたいって。
近くに来たらぜひ立ち寄ってってお父さん言ってたな。
臆病な自分の言い訳が止むのに一年近くかかった。
私が目をそらしていた間、確実に苦しみ続けた人たちがいた。
そして、私が目をそらしていた間に苦しむ人たちの近くに寄り添う人たちがいた。
私はどう頑張っても「外野」だろう。
彼らの痛みも苦しみも正確にはわからない。
それは一生変わる事のない事だとわかっている。
そして。。。。
原発が絡むからいろんな人がいろんな事を言って、利害や保身もあれば無知もある。
その言葉を目で追えば追うほど虚しくなる。
人ってこんなに淋しい存在だったのかと。
悔しくなる。悲しくなる。
こうやって人はラインを引いて自分と誰かを区分けしていくのかと愕然としてしまう。
だけど、やっぱり人の想う気持ちを信じたい。
諦めない気持ちを応援したい。
だから、私は口をつぐんで体を動かす事を選ぼうかと思う。
出来る事から、少しずつ。
まだまだ、南相馬を含め支援も人手も必要です。
福興浜団へのご支援をどうぞ宜しくお願い致します。
そうま農業協同組合 原町総合支店
普通口座 0058434 福興浜団 代表 新川雄彦(シンカワ タケヒコ)
(写真の一部は、福興浜団よりお借りしました。)