秋葉原の無差別殺傷事件で被告に死刑が求刑されましたね。


当然のことと思います。


2008年の初夏に起こった衝撃を今でもよく覚えています。


その場にいたわけではありませんが、その年の春先まで秋葉原の一角で働いていた身としては、そのニュースが他人事でなく自分に飛び込んできました。


これはエゴだということを自覚しながら語りますが、もしそこでお世話になった会社の先輩・上司や同僚、もしくは親しく話していたような顧客さんが犠牲になっていたら、この事件はまさに「自分事」であったでしょう。


犠牲になった方の中に知っている名前が無いことを祈りながら必死で何度もニュースを見ました。


不謹慎ながらもそこに見知った名前が無いことに安堵しつつ、それでもやはり特に身近に感じることのできる事件として、この事件は自分の中で許しがたい事件となりました。


尤も、憤りを感じたのは被告に対してだけでなく、被害者の救護をほっぽって携帯やカメラで現場を撮っていた連中にもですが。


ともあれ、死刑は免れないと確信しつつも、きちんと責任能力が認められ、求刑がその通り行われたことにほっとしています。


僕は従来から死刑廃止論には疑問を持っていて、特に光市の母子殺害事件を追った「なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日」(門田隆将著)を読んで以来、確固たる意思を持って死刑を是とする立場ですが、死刑には「死」という絶対的な存在を以て人を「生」と向き合わせる力があると思います。


その事実を突きつけることによって、それに値する罪の存在を確認させることができる、そういう考え方です。


まして秋葉原の無差別殺傷事件においては、計画的犯行の上に7人もの命が奪われており、社会的損失と影響は勿論、被害者及び遺族の方の痛みを考えると、被告に対しては最低7度の死刑が言い渡されてもいいぐらいだと考えます。


いわゆる永山基準といわれる最高裁の死刑の基準となっている判例がありますが、そんなことは遺族の方の感情からすれば到底納得いくものではないでしょう。


犠牲になった方の数に関係なく、また精神鑑定による責任能力の有無にかかわらず、自らの意思で悪意を持って犯行に及んだ場合、法廷には「死」という選択肢が用意されていて当然だと思います。


今の時代において死刑がどこまで「抑止力」として機能するかどうかは分かりませんが、それでも現実に死刑がある、ということには、少なからず意味を見出せるのではないでしょうか。


尚、この主張は被告もしくは容疑者が現行犯であった場合や、物的証拠・状況証拠共に充分である場合に限ってのものと自分の中で決めていますので、冤罪云々というところまで含めては語りません。


本当の意味での反省がどうこうという議論にも参加するつもりはありません。


時間・手間の都合で、このレベルのものでは穴だらけの主張だと思いますし、感情論も見え隠れしています(但し、社会的感情という言葉に表されるように、個人的に感情論が悪いとは思っていません)。


また、意見として他の事件との比較や整合性が弱いとの指摘もあると思いますが、甘んじて受けましょう。


死刑廃止論者の方からすれば決して愉快なものではないでしょうが、どなたにもあくまで一つの意見として読んでいただければ幸いです。