じめじめした日曜日。

今日は日課の早朝ランはお休み。死ぬまでにやりたい事リストの一つ、

ホノルルかボストンマラソンに出る事。叶うかな....

一緒に生きて行こうねと約束していた元カレは携帯のGOOGLE KEEPに我々の名前の頭文字を取って”〇〇絆プロジェクト”とフォルダーを作り二人でこれからしたいことをお互いに書くように言われていた。私のかつての留学先のヨーロッパに一緒に行き

仕事でずっと私のポートレートを撮影してくれていたスペイン人写真家の所に行って二人の写真を撮影してもらおうねとか、シスコ育ちの彼にシスコを案内してもらう事とか、勿論マラソンの事もそこに組み込まれていたけれど、何一つ出来ないまま変わらないのは私の日課のジョギング。彼と走ることを目標に一気にモチベーションが上がったけれど、壊れたことが確実になってから体系を維持するためだけに唯走っていた昔の私に戻った。

人前に出る仕事からコロナにより真逆のサポート業務に転職した私だが、安定と引き換えに、自分の持ち物や積み上げてきた引き出しで働けない、いつも心に小さな

”できない”と言う劣等感を持ちながら仕事をしていた私に”好きな事しい、応援するから。人生は短いし、君が幸せにしているのを見るのが嬉しいから”と言ってくれていた彼と。、私は今の仕事を出来るところまでやったら一緒に厳選したワインと美味しいおつまみ料理を出す店をしようねと話していた。

 

縁がある人、縁があれば~と人は良く言うけれど、私もかつてそう思って生きてきた。でもこの人と絶対に一緒になるだろうとお互い凄い縁を感じた彼と壊れた後、

”縁がなかったんだよ”と周りから言われたが、それは違うと今は思う。

縁はつないでいくもの、運命を感じる相手に出逢わせてもらったのに、運命だと感じる事が出来たのに、私はそれを繋ぎ留め、紡いでいく事が出来なかった。

縁は降ってきたときにそれを感じられるか(感じなければ通り過ぎていく)次に

その出会いが如何に貴重で素晴らしい事なのかをどんな時も思い続けられるか

(感謝の気持ちを持ち続ける)、そして大切な関係を温め維持していく

(私、僕ではなく2人でWEであり続ける)これがベースにないと大切な縁も手から

こぼれ落ちてしまう。

私は気付いたのに温めて大切にできなかった。出会いに対する感謝が足りなかったから愛の神様から罰を与えられたのだと思っている。

恋愛に対して敢えて執着しないように生きてきた私が自分を100%委ねたいと思える

これから一緒にずっと生きていきたい人に出逢い、自分は”好きな人がいるとこんなにも頑張れるのだ”と気付くには彼が相手じゃないとだめだったのだと、自分の心の醜さ葛藤、弱さ、欠点、執着、を晒されて今も尚自分を許せないけれど、この罰を糧にして

貴方がいるから生きられると思う人に出逢いたい。