一匹の蜘蛛がいた。八本の脚を巧みに使い分けながら、浴室の壁を上へ上へと登っていた。私はその様子を湯舟に浸かりながら、ぼんやりと眺めていた。
蜘蛛は一心不乱に上を目指し、私の視線など気にも止めていないように見えた。私の存在にすら気づいていなかったのかもしれない。湿った壁を時折踏み外し、下へと転げ落ちそうになっても、執念によってその場に踏み止まっていた。
私がのぼせ始めた頃、蜘蛛はようやく浴室の頂上に着いた。壁と天井が直角に交わるところに腰を落ち着かせ、その場から動かなくなった。
のぼせかけた私は、蜘蛛のその様子を見た途端に、急に興が削がれ、蜘蛛への関心が薄れた。ゆったりと浸かっていた湯舟から腰を上げ、鏡の前にある風呂椅子の前に腰を掛けた。髪を洗う為にシャワーヘッドに手を掛けた。その時だった。関心が薄れていた蜘蛛の存在が唐突に頭の中を横切った。同じ空間にいる蜘蛛の存在が、私を妙に不安にさせ、無性に腹立たしい気持ちを引き起こさせた。
私は矢庭に立ち上がり、右手に持っていたシャワーヘッドを、壁と天井の狭間でくつろいでいた蜘蛛の方へと向けた。左手で蛇口を捻り、シャワーヘッドからは勢いよく水が飛び出してきた。水は蜘蛛に直撃し、蜘蛛は脚をばたつかせながらあっという間に下へ下へと落ちていった。排水口に流れ着く頃には観念したのか、死んでしまったのか、蜘蛛はぴくりとも動かなくなっていた。私は排水口に流れていく蜘蛛を確認した後、何事もなかったかのように風呂椅子へと腰を掛け、髪を洗い始めた。
髪を洗っている途中、背後から視線を感じるような錯覚に苛まれた。しかし私は一度も振り向かなかった。鏡のある正面だけをずっと向いていた。鏡は曇っていて、私の姿を隠していた。
髪を洗い終えると、私は蛇口を閉め、そのまま浴室から出た。蛇口は年季が入っており、きっちり閉めても閉まり切らず、私が浴室から出ていった後も、シャワーヘッドからは水滴がこぼれ落ちていた。
誰もいなくなった浴室の中は、シャンプーのハーブの香りがうっすらと漂い、ぴちゃりぴちゃりと水滴が地面に落ちる音だけが幾度も響いていた。