長谷川豊という人の記事をよんで、少しスッキリした気分になりつつ(マツコとかこの人はきちんとした考えに基づいて論理的に納得させてくれるので好きだ)、やっぱり感情論でぶつかる場合どうしてもモヤモヤが残る場合があるなぁと思う。



私は基本的に人間なんて不完全な存在だし、大好きな臨也が人間を愛するようには愛せないし人の欠点とか超目について、自分だって欠陥人間の癖に他人に厳しく自分に甘いし(勿論そんな自分はいやですよ)、色々言えるご身分ではないがやっぱり色々思うし、自己認定欲求も強いし、思うことは色々あるのでやっぱり言いたいし書きたい。特に「衆愚」に対する嫌悪感は自分も一般庶民の一人にすぎないが凄まじいものがあって、今回ベッキーだのSMAPだの芸能騒動がいろいろあったときも、事件の本質以前にぴぃぴぃと感情論(それも、自分の立場から発言するのはいいが、それ以外の視点を持とうともしない人たちの)でわめきたてる連中がいやでいやで仕方がなかった。



はじめにいっておくと。


私は、勿論他人の色恋沙汰には関心がある!!誰と誰が付き合ってて別れてどんな泥沼があってとか、そりゃー知りたいよ!!!!私そんな上品じゃないもん。でも、所詮他人のことだから、お隣の誰誰さんでも芸能人でも一緒だ。それに、知りたいだけであり、そのぜひに関して悪罵を浴びせる権利を持っていない自覚くらいはある。不倫云々は長谷川さんの見解と一緒で、私もこれに関しては一番悪いのは奥さん→次に恐らく自分が既婚であることを隠してそのままズルズルしていた男→→→→ベッキー(自分がどれだけ有名で、支えてくれている人たちが沢山いるかという自覚が薄く迂闊だった)だと思っているが、ただそれだけで、当人たちが勝手にもめて勝手に解決すればいいのである。私を始め、叩いている人も擁護している人も所詮部外者であり、芸能人だろうが私生活で私たちの気にいるように行動しなければならない義務もない。何か、自分が大衆の一人であることを偉いとでも思っているのだろうか……と思うくらい大口叩く人たちが多くて、なんか恥ずかしい。あ、ここでこんなこと書いてるお前が恥ずかしいよって言われるのは構わない。だって自己顕示欲あるし思ったことを黙ってるとモヤるんだもん。そもそもモヤらせたのは騒いでる人たちである。


で、先日書いた、この件に関して意見が合わなかった知人………にもモヤッている。なんか、凄く関わりたくなくなってきた……。



自分のトラウマを思い出して胸が抉られる思いになったので、そっちのSNSで、二度傷つけられるということに関しポロッと呟いた。


私が引きずる出来事というのは、「きちんと詫びて貰えなかった」ことである。彼らは、人を傷つけても、悪者になることに対して物凄い拒否感があるのか分からないが、相手を自分が傷つけたということを直視しないか認めないかで、謝罪をすっ飛ばして「俺・私はこういうつもりで悪気はなかった」と言い張るのである。悪気がないのなんかわかってるわ!!!と言いたい。悪気があったかどうかでいえば、悪意から行ったのであれば問題外である。そういうクソもネット上で会ったことがあるが、悪意(よくわからないが嫉妬らしい)から私に嫌がらせをしたと自白はしたので、すったもんだあったが勿論縁を切った。重要なのは、第一段階では悪意があったかどうかじゃない。



理由はどうであれ人を傷つけたのだから、それを認め、罪を感じ、心から詫びたらどうだと。それがあるだけでぜんっぜん違うんだよ。心は見えないけど、例えば、貴方が、悪気はなかったが走っていて人にぶつかって、その人が顔面地面にぶつけて顔中血だらけになったら流石に謝ると思うが、心の場合も同じである。こっちは顔面血だらけで呻いてるのに、「悪気はなかったんです!俺は、走っていただけなんです!!!」なんて、ふざけんな死ねとしか思えん。心からも血は出る。で、心の場合。これは、私の場合だが。


ここで、傷つけたことを認めて貰えないことにより、二重に傷つく。まるで、私が勝手に自滅して傷ついたかのような扱いに、ショックを受ける。そして、その部分は壊れる。パラノイアだといわばいうがいい。何年経っても、ふとした拍子にそこの穴に意識が落ちて、逃げられなくなる。夜中に涙が止まらなくなることがある。あの時、直ぐにケアしてもらえていれば……と恨めしく思う。自分の何倍も苦しめることが出来たら!!とどれだけ妄想を繰り返したことか。こんな風にはなりたくなかった。心が壊れるというのはこういうことだ。部分的だから、生きていく分にはなんとかなるけど。理解できなくても、理解しようとしてほしかったが、先ず傷つけたという現実を見て貰えなかったので私は壊れたのだ、と 当人につき付けたいけどもう多分会えないからなぁ。後の祭りっす。さて、愚痴はともかく。


この感情を一言に纏めて書いたのだが、その、地雷をよく踏む昔の知人の反応が、仕方ない、だって人間だもの。だった。


一瞬、殺意が湧いた……が、冷静に返した。学習できる人は、それをやってしまっても、もう繰り返さないだろうといった内容だ。



確かに、私は大抵のことを、冒頭に書いた通り、人間だから仕方ないって思ってる。家族関係とか恋愛とかにはそれが顕著だ。今日は野々村竜太郎のまとめを読んで大爆笑して腹筋が崩壊しそうになっていたが、ホントはこんなに笑っちゃいけないんだろうな……とも思った。この人も、物凄い劣等感を感じながら、それを必死に否定して、ママンの期待に応えんとして頑張ってきたつもりなのだろう……と哀れみの目で見るべきだと思いつつ、「スキンヘッド元県議は頭を野々村にして」に死ぬかもと思う程笑った。笑いはしたし、彼は厳罰に処されるべきではあるが、よってたかっていじめるべきでもないとは思う。人間なんだしね。


でも、知人の 人間だし。 の用い方は、あまりに軽率で、被害者の心情に配慮しなさすぎではないかと。人間じゃなくてもさ、福島で被災した方々に、「仕方ないよ。だって天災だもん」とか、「仕方ないよ。東電の人たちだって人間だもん」とか言ったら傷に塩どころか硫酸塗り込むレベルだと思うのだが。まあ、そこまでではないにせよ、やっぱ「だって人間だもの」にも限界があると思うのだ。


私は、人間は理性の生き物でもあるけど、同時に感情の生き物でもあるから、色々なことに対して人間だから仕方ないって思う。勿論それは悪いことに対してよく言うのだけど、人間は他者の感情をおもんばかることのできる生物のはずだ。それが育っている人も育っていない人もいるが、思いやれることに対して、「やっぱり人間だものね」とプラスの意味でも用いることが出来ると思う。



私はみつをさんにはそんなに興味ないが、この言葉は尊い文句だと思う。軽率に使う言葉ではないし、思考停止した所でヒョイと翳していい看板にはならない。重みを持って使うべきだ。考えて考えて、人間だからそうなることもあるさ、とか、人間だからこそできることだね、とか。


極論だが、少年Aが殺人をしたことに関して「だって人間だもの」とは、臨也だって思わないだろうと思うのだ。いや、思うのかな。あ、これは成田先生にきかないとわからんけど、ちょっと適当言ったけど。「色々な人間がいる」ことと、「全ての人間がなにをどうしようと受け入れる」ことは彼の考え方の根幹だと思うが、人間だからなんでもアリ、となると暴論になってくる気がする。そう、暴論なのだ。


人間だから、間違えることもあるよ。 ということを恐らく彼は言いたかったのかも知れないが、私は、勿論個別の体験を思い出して言ったのだけど、人を二重に傷つける人たちというのが一定数いる現象に関して物申したかった。人間が時に間違えることくらい解っている。二重に傷つけるのも勿論人間の愚かしい側面の一つなのだろう。でも、それを繰り返すということは人間的に成長しないということで、そんな風になんでも「人間だから仕方ない」で思考停止していたら、自分も他人も成長させられないのではないか。


いや、多分、彼は善意で、他人のことを恨めしく思う悪意に染まっている私に対して、許して楽になりなよ、って言いたかったんだと思うけどね。解っちゃいるのよ。うん。でも、君も何気に三重にしたからね傷……って思う訳で。


「人間だからそういうこともあるよ」というのは、思考停止しても良いという免罪符ではない。そんなことは、大抵のことに関して前提として存在しているが、その上で人間は学習しないといけない。人間だから、小児性愛という性向を抱えて生きている人も沢山いるだろうけど、それを実行するかしないかで明暗が分かれる。己の欲望のままに生きようが他人を思いやって生きようが人間であることには変わらないけど、仕方あることと仕方ないことはやっぱり線引きされるはずだ。


他人を何度でも傷つけて自覚のない人間は沢山いるが、自分の学習能力のなさを本気で心配するべきだ。生きているだけで害悪になる可能性があると思う。私も、同じようなことをしないか気を付けたいと思う。



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臨也は人を傷つけてるが、ちゃんと自分があくどいことをしてるって自覚があって堂々としてるから好きなんだろうな……(ほわん←結局そこかい)



いやだって、『折原臨也と、夕焼けを』で、自分が背中を押した結果凶行に走った人間に対して、「俺の心ない言葉」とちゃんと解って言ってるから、彼は思いやりがある。ただ、それでも欲望優先なんだが。結果的に凶行が止まってるし、凄く痛快な良い話だったから、臨也はやっぱ善悪超えた所に存在してるなぁと信者目線で思うのでありますハイ。



結局ここに落ち着く私……寝なければ。