中村さんの宿題

松本恵子


眠りからさめると、もう日は高く上っていた。

しまった、寝過ごした。中村さんは布団の上に

起き上がると、枕元に置いたメガネを手探りしていたが、ふと手を引っ込めて、もう一度布団の

中に足をそろそろと戻した。なあに、急いで

起きるこたあない。

六十五歳で会社を定年退職して、もう一年近い。

退職したときはもっと働けるぞと不満さえ

感じたが、今や中村さんはすっかり引きこもっている。

定年になったらいtぅ書に旅行にいけるね、と

楽しみにしていた奥さんは、去年の夏、

どこへいくまもなく、あっけなく亡くなってしまった。

脳出血というのは残酷なものだ。

隣の市に嫁いだ娘には、まだ手のかかるやんちゃ盛りの双子がいる。

「おとうさん、実のまわりのことなんてしたことないでしょ。ヘルパーさんをたのみなさいよ。わたしも

そうそうこられないよ。」


なあに、ヘルパーなんて。まだまだ人の手を借りなくてもやっていけるさ。」

くちだけは威勢よくタンカを切って、なかむらさんはひとり暮らしを始めたのだった。

本当によくがんばったと思う。



洗剤の箱に書いてある注意書きとにらめっこしながら

洗濯物と格闘した。食事も最初は歩いて十五分の

スパーで弁当を買っていたが、今は新しい

小さい電気釜えお使って、ご飯は自分で

炊いている。


慣れてみると、ひとり暮らしは気楽だった。

昨夜のようにちょっとぐらい晩酌のお酒を

飲みすぎても朝寝坊してても、だれにも迷惑は

かけないし、口うるさく言われることもない。

ただ、最近ときどき今朝のように、何もかもめんどくさくなってしまう。


うっかりすると、何日も人と話しをせずに

過ごしてしまったことに、ふと気づいたりする。

布団の中でぐずぐずするのにも飽きて起きだし、

残りご飯でお茶漬けをさらさらかきこむ。


さて今日は何をしよう。ぼーっと食後のタバコを一服していたら、ピンポーンと玄関のチャイムが

鳴った。こんな朝からだれだ?

最近は新聞の集金ぐらいしかこないはずだが。

玄関の引き戸をからから開けると、なんと、小さい女の子が、右手にたんぽぽやなんかを握って

立っていた。女の子は中村さんの顔を

見ると、急にはにかんでもじもじした。

後ろからついてきた若いおかあさんがあわてて、

「あら、もうしわけありません。奥様はいらっしゃいますか?」

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