すべての出来事は、
ただそこで起こり、ただそこに事実として存在する。
それは誰にも等しいものとして。
その事実自体をどれだけ知っているか、
知的に理解できているかということは、
現実に融合したその事実を理解していると言う状態に
必ずしも結びつくわけではない。
ただそこにあるはずの事実が異なる意味を持つのは、
それを感じる人間というフィルターに違いがあるから。
その事実の意味するところを必要としているものは
この現実であり、そこに生きる人間そのものだからだ。
状況を証拠を把握しているという状態は、
事実を理解する道程の一歩であって、
それだけを集めていても拡散的認知でしかない。
事実を把握することと、
それにどんな意味があるのかということは、
まったく別のものなのだということだ。
その事実に関わった人間の数だけ、真実は生まれている。
人間というフィルターが、自分というフィルターが
その事実についての他者と異なる意味を生み出している。
フィルターになっているのは、自身の経験や価値観、欲望、感情等ではない?
それらはすべて、個人に属するものだから、個人が自身を表現することに、
他者としてそれぞれを判別することに生かされるものではある。
他に共感を得たり、他と結びついてゆくことに生かされるものではある。
だけど、ある真実を見出そうと思うなら、それらを超えた感性が必要だ。
感情や欲望を意識して心を静かにし、
価値観という経験から得た感覚をフラットにして、
事実が表す、現実の発する微かなサインを感じ取る必要がある。
事実が表すものを知性が捉え、現実の発するものを感性が捉える。
それらのバランスが重要なのだ。
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目的は何だ?ある真実を知ること?
自分を、相手を理解すること?自分を表現すること?相手を変えること?
それぞれバランスを調整して、生かさなければならない状況で
目的を見失うことは致命傷を負いかねない。
自身の目的やフィルターがどういう状態かを自覚すること、
それこそが、他者と繋がる時にまず必要とされる姿勢。
今日も言い聞かせる。