今月のテーマを前に、「もうすっかり成熟し、成長しきった」
そう言えることがあるのだろうか、と考える。

少女の時分、クラスメイトのやっちゃんと『大人になったら可憐な女になる!』と誓いあったことがある。そして、可憐になるために一体なにをしたら良いのだろう? そう考えて行き着いたのは”毎日体育館を十周する”という青春ムービーめいたものだった。
なぜそういう思考に行き着いたのかは時間が経った今でもわからないのだけれども、当時、本人達はいたって真面目にそうすべきであると信じていた。
体育館に溢れる大勢の人いきれの中、少女二人は足並みを揃えてただ黙々と走り続けた。来る日も来る日も飽きることなく、それはもう熱心に、『可憐な女になる』という目的のためだけに。

しかし熱は突然冷めた。春が来てクラス替えが行われ、その途端、私たちは集わなくなったのだ。まるで打ち合う駒が離れたまま、どこかへ道を逸れてしまったかのように。廊下ですれ違っても、見知らぬもののように通り過ぎるだけになってしまった。

あれから一体何年の年月が経っただろう。めくるめく季節を数えて私は、そしてやっちゃんは、可憐な女になったのだろうか。
いや、少なくとも私は『可憐』という形容詞が似合う女にはならなかった。彼女と袂を分かち、それぞれの道を歩み始めたあの時から、『可憐な女になる』というひとつの目的は小さく小さく縮こまっていき、いつしか消えてしまったのだ。

しかしこうして振り返ってみると、少女時代から女らしさというものを意識していたことがわかる。女は、生まれたときから女であると言った人もいるが、やはりその行動も、性のなせるものだと言えなくはないだろう。

エマニュエル・べアールは、「自分のことをきれいだと感じられるようになったのは35歳を過ぎてから」だと言っている。それまでは、「ソバカスだらけの小さな女の子」にすぎなかったと述懐する。
フランスを代表する女優である彼女でさえ、自分のことをそう語るのだ。私たちが女としての成長を満足出来ないとしても無理からぬことかもしれない。

成熟はしたいが、満足はしたくない……全く女はワガママな生き物である。そもそも、”女”というものに完成形はないのだろう。そう考えると成長とは、飽くなき挑戦でありながらもその実、ゴールのないマラソンをしているのに近い、孤独なランニングなのかもしれない。