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辻が花(10)
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「弘幸、瑞穂さんは……」

かすれた声で、けれど、はっきりと口から出てきた言葉は、沙弓本人すら想像だにしていなかったものだった。
「瑞穂さんはどんな様子?弘幸のところに来たとき、瑞穂さんはどんな感じだったの?」
弘幸と沙弓の間に、長い沈黙が流れた。
「知りたいの。どうしても。教えて、弘幸」
沙弓の脳裏に、スツールに腰掛けて艶然と微笑みながらシングルモルトウィスキーを舐めていた、瑞穂のあの赤い唇がよぎる。

「ボロボロだったよ」

「えっ?」
「ボロボロだったんだ、彼女。本当にごめん、沙弓」
「ボロボロってどういうことなの?赤ちゃんを産んだのでしょう?欲しかったものを計画通りに手に入れたのでしょう?なのにボロボロって、一体何?わけが分からない!」
再び黙り込んだ弘幸に、沙弓はたたみかけるように叫ぶ。
「謝ってばかりじゃなくて、ちゃんと説明してよ!じゃないと納得できない。私、一生彼女を憎むわ」

弘幸は、ぽつりぽつりと話し始めた。
突然の誘いで数日間の夜を一緒に過ごした直後、手の平を返したように彼女は豹変した。しばらくは苦しんだが、弘幸がほとんど忘れかけたころに再びかかってきた突然の電話。
出会った時の華やかさは見る影もなく、青ざめてやせ細っていた瑞穂。両親に懸命に父親なる男の存在を隠し通した挙句、出産前に絶縁されたこと。ある程度の貯金はあるが、生後数ヶ月の子どもを抱えた瑞穂には、再就職先を探そうにも想像以上に世間の風当たりが強く、積んできたキャリアやコネが全く使えない状態に陥ってしまったこと。不況のあおりも正面から受けて、今後の見通しが全くたたない状態だということ。

そして、か弱そうに泣く赤ん坊を抱えて現れた彼女は、最初、弘幸が全く別人かと思った程顔色も悪く、憔悴しきっていたこと。

弘幸が話す一連の出来事を、沙弓は信じられないような思いで聞いていた。
頬をつたう涙がゆっくりと冷たくなっていった。
「背筋は……」
「え?」
「瑞穂さんの背筋は伸びていた?」
「いや。何で?赤ん坊を抱えて話しながら、ずっとうつむきがちになって泣いていたよ。何度も何度もこんなはずじゃなかった、って言いながら」

沙弓の中に渦巻いていたどす黒い霧がゆっくりと姿を消し始めた。
これ以上、何を言うことがあろうか?
これ以上、誰が瑞穂を責めることができようか?
弘幸は続ける。
「こんなはずじゃなかった、って言いたいのは、俺の方だよ……」

沙弓は思わず耳から携帯電話をはずした。
鈍く光る画面には「通話中」の文字がチカチカと浮かび上がっている。それを見ながら沙弓は静かに電話を切った。
ロビーにも、ガラスの回転ドアの向こうにも、もう人影はまばらで、アーケードの灯りも消えていた。

沙弓は少し姿勢をただし、再びバーに向かって歩き始めた。


……つづく