人を好きになると、目はぎらぎら肌はつやつや頬は真っ赤、
おしりはふりふり、胸はどきどき瞬き100回……
アドレナリン大噴出の状態。それが恋。

ところが恋から愛に変わると
あばたもえくぼと思っていた様々が
どうも「こういうところ許せない」ものだったり
「こんな人だと思わなかった」だったりするわけで
途端に目の輝きは失せ頬は土気色になり胸もしぼむ
(……かどうかはわからないけれど)
更にはそこに『情』という新しい言葉が付随してくるから
愛というのは深く、そして厄介なのである。

愛はあばたもえくぼを許すものではない、決して。
あばたはあばたであることを理解したうえで
それを受け入れる。それが愛だ。

だから夫がどんなに甲斐性がなくとも
「そんなもんだ」と許してしまったり、
行き過ぎると
「この人は私がいないとダメだから」
と思い込んだり
「どうせこの人しかいないのだし。誰もいないよりマシだわ」
と思ったりしてしまうのである。

愛という不可解な現象について考えると
本当に溜め息が出る。
時に正常とは思えない行動。
第三者のほうが簡単に答えを導き出せるという始末。
女性らしいというけれど。
優しさ?弱さ?優柔不断?やっぱり……愛?

雑誌で見る『恋愛特集』はつまるところ
『恋』が対象であって『愛』となると違うのだね、雰囲気が。

愛?
たとえば『地球環境保護』とか
『貧困撲滅運動』とかそういう響きだろうか。
(ときめきとかフェロモン、まるで関係なし)
子供とか自然とか動物とか。
大きな力に抗えない受け身の弱者に
差し伸べよう愛の手を!
とかなんとか。

ということは、
ギャンブルや酒、女遊びにドメスティックバイオレンス……
そういう彼らは弱者にあたり、
妻は手を差し伸べているということになるのか。
よしよし、マイスイートハニー。
ひとりじゃなんにも出来ない可愛い子よ……?
うーん。多分、違う。

世の中で取り上げられる『愛』は
随分オブラートに包まれているけれども、
愛の裏側っていうのは本当の本当はすさまじいものなのだ。

女は『愛』に生きる姓物だけれども
だからといって自分を見失うのだけはいけない。
二十代の体力あるうちならともかく、
もう三十代にも差し掛かったら
そろそろ自分は独立した自分であることを視野にいれて
『愛』を表現したいものだ。

人生の責任を持てるのは結局自分しかいない。
大切に、慈しみ、敬い、優先することも必要だろう。
愛にのみこまれず、愛を示せるように。