お久しぶりです。
息子の花粉症や、娘の突発や、娘の保育園準備やら慣らし保育やらで心も体もバタバタでした。
なんとか落ち着き、仕事が始まるまでの半月程は朝から夕方までのんびりできる1人時間ができてソワソワです^_^
最近、「可哀想」って言葉について色々考えさせられてます。
親が、発達障害の我が子を思って
「〜できなきゃ可哀想」
「〜できたら楽しいのにできないから可哀想」
「将来的に〜できるようにしなきゃ困るのはこの子だからやらないのは可哀想」
「〜が人と違うから、変な目で見られて可哀想」
などなど、可哀想って言葉じゃなくても、たくさん聞いてきたセリフです。
これって、本当に可哀想なのかな。
そりゃ、できないより出来る方が楽しい事もあるけど、できない事は可哀想??
できることを増やすのは本人の自信に繋がる事もあるし、悪くないと思うけど、できない事は可哀想で不自由で不幸??
なんか違う。。
私の勝手な考えだけど、できることを増やしてあげたい親の気持ちはわかるけど、できない状態の子を親がマイナスにとらえるのが、子どもにとって一番可哀想なんじゃないかなと感じたり。。
私の友人で、療育で指導にあたっている友人が
「教室に来る子達は、よく「ぼく(私)、できないから。。」って言うんだよ。。」
って言っていました。
できない我が子を見た時や、1人枠から外れてる我が子の様子を見た時や、親の普通の概念からズレてる我が子を見た時に、できるようにさせたいと思う気持ちはわかるけど、親が必死に療育しても、1番頑張らなきゃいけないのは子どもで。。
親の私が「頑張ろう!」って意気込めば意気込むほど、期待も高まって、子どもが努力してできた事よりも、次の目標に目が向きやすくなる。。
子どもの「できた!」が1つ増えたのは、私の療育の手柄でもなけりゃ私のおかげでもない。。
子ども本人の成長のタイミングと、そして努力と勇気の賜物なんだと言うことを改めて気付かされました。
それを忘れて、私が「できた!」を増やす事に躍起になると、
「ぼく(わたし)、頑張ってもできないから。。」
に繋がるんじゃないかなと思ったり。
じゃあ、親の私が子どものためにしてあげれる事はなんなんだろうと考えた時に、
『今の我が子なら、これはできるんじゃないか!』
という、子どもの状態を観察して、タイミングを見計らってあげる事なのかなって思いました。
こんなにも子どもの事をみて、考えてる人は、親以外いないと思いますし。
あとは、子どもの力が発揮しやすい環境作りをしてあげたり?
(目で見てわかるようにしたり、クールダウンスペース作ったりとか?)
今だ!というタイミングが来た時に、それに合った療育すれば大爆発の成長促せるんじゃないかなと思ったり。
そのためにも、できてもできなくても、改めて、全てを受け入れる姿勢は大切だな感じました。
(自責の念を込めて)
全然話は変わりますが、以前観た東田直樹さんのドキュメンタリーの中で、自閉症の子をもつ親御さんが
「この子に友達を作ってあげたい」と言った時、東田さんが
「友達がいない事は不幸なのですか」とこたえていました。
なんか、すごい会話ですよね。
(東田さんは重度自閉症なので会話はできませんが、タイピングすると会話ができるようになります。
自分の気持ちを伝える手段をもたせてあげようと、タイピングを教えたお母様に感服致します。)
友達がいない事は不幸なのか。
私の中の常識の概念が覆る一言でした。
東田直樹さんは、本の中で、「なぜ、相手の話を聞けないのか」「なぜ、目をみて話せないのか」「なぜ集中しすぎるのか」など、親や関わる人が感じる「なぜ?」を、自閉症である東田直樹さん本人からとても綺麗で繊細なのに分かりやすい言葉で応えてくださり、その内容は目から鱗な事ばかりでした。
(もし読んだ事がない方がいらしたら、本当におすすめです)
そして、著書の中で、東田直樹さんは
「こんなに美しい世界をみんなは知らないなんて可哀想だな」と書いてます。
『可哀想』
そっか〜。
その世界を見れない私は、彼らからすると可哀想なんだな〜。
この『可哀想』には、なんだか羨ましい気持ちがうまれました。
では、今日も意気込みすぎず、子ども達を気楽な気持ちで見つめたいなと思います。