組織と組織を担う者のジレンマ | 原子力ムラでがんばるお父さんのブログ

原子力ムラでがんばるお父さんのブログ

最近、ひどい言われようだ…。
なんかつらい…。
これって社会のイジメ?魔女裁判?

規制庁の審議官が、公表前の文書を電力会社に手渡したとして更迭された、というニュースがあった。いかなる理由があれど、ルールや指針を破る•逸脱するのは許されない。また、この事象や、その報道のされ方によって、国民の不信は積み重なっていくだろう。また不祥事には、必ず複数の要因があると思う。単に懲戒や非難だけでなく、遠因まで立ち返った分析と再発防止や水平展開がなされるといいなと思う。

この審議官の方には、以前、国(前の原子力安全委員会)の検討作業に携わった時に、会議に出席されていたのを拝見したことがある。こちらは技術系という職種がら、お役人、特にキャリア(おそらく)に会うことはほとんど無いが、その方が「原子力規制の基準をわかりやすくして透明性を持たせたい」、(たぶん文系の役人だが)「生の検討作業に少しでも参加したい」との趣旨を述べられ、こちらも素直に「あぁ、お役人って意外とこういう使命感のある人が多いのかもな」と自分のステレオタイプ的な役人への不信感を素直に反省した。見た目、人柄も良さそうな感じだったと記憶している。なので、「あ、あの方だ」とニュースを見たときは驚いた。

しばしば思うことがある。原子力の安全の問題は、事業者と国が役割分担しながら取り組んでいかないといけない問題だ。個別のプラントの安全性は事業者責任という解釈で良いが、求める安全性のレベルと事業者の取り組みのレベルをしたたかに見つめて、そこに乖離があれば(普通はあるもの)そのギャップを埋めて行くのが規制戦略というものだ。
しかし、今の国の規制は大局的な判断がなく、まるで意地悪なお姑さんが嫁さんイビリをするがごとく、後だしじゃんけんでダメだしするばかり。
この要因の一つは、民主党時代に愚かな政治「家」主導によって、ルールメイキングが半熟のまま当該規制機関の設置が行われたことである。本来最重要である「原理原則」と「現場主義」の掛け算を忘れて、「時の原理主義」に迎合した結果、まともな社会の一端を担える行政機関に至っていないのである。

一般論でも使命や規範のどこか不備がある組織の中で、どのようにしたら良い組織、良い社会になるかを悩んだ挙句、使命感に基づいてあえて道を外れる「現場の人間」が出てくる。あいにく、このような行動は、短期的には糾弾されるのみ。大局的な適否は未来の歴史の中でしか判断されないものもある。もしかしたら、いやおそらく、上述の審議官の行動もこのような類のものなのかもしれないと考えてしまう。