原子力ムラでがんばるお父さんのブログ

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最近、ひどい言われようだ…。
なんかつらい…。
これって社会のイジメ?魔女裁判?

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私はマンションに住んでいるが、うちの部屋には2箇所ほど写真のような混合水栓(お湯と水を混合して出てくる)がついている。レバーを左右にひねる度合いで容易に温度調節ができるものである。

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貧乏性の私は、冬でもあまりお湯を混ぜた暖かい水を使うことは無い。あと、せっかちで、屋外の給湯器からそれなりの距離を流れてくるためになかなか暖かくならないのを待ちきれない、というのもあるかもしれない。

でも、最近、妻や子供は、結構安易にお湯を使っているのに気づいた。それを見るとなんか落ちつかない。ガス代への影響はたいしたことないだろうが、要はエコでないから。

しかし最近、さらにアンチエコの光景を目にすることになった。家族がお湯を使ったあと、あまりこまめに給湯器のスイッチを切っていないようなのだが、その状態で単に水が欲しいだけ(温水は不要)なのに、レバーを中央にした状態で水を流すため、おそらく屋外の給湯器はその都度「要請に答えて」ガスでお湯を沸かし始める。しかし実際はそのお湯が蛇口に達する前に、必要な水量を確保できた家族はそこで蛇口を閉める(正確にはレバーを下げる)のである。給湯管に残されたお湯の持つエネルギーはそのまま配管や潜っている壁材を温めるという無意味なことに使われる。

理系の私にはこの「人の幸福」に貢献できない熱の無駄な流れが手に取るように見える。あー、この無駄はなんとももったいない。うちの家の話は、見過ごすか、家族に苦言して不評を買うかのどちらかの選択をするよりほかない。でも、世の中の水栓のデザインについては、こういう無頓着に由来するムダを削減するようにできないのか?

そのとき、ひらめいた!うちの水栓の場合、レバーは中央にしたときに、お湯:水=1:1くらいに混ざって出てきている、おそらく。で左ほどお湯の割合が増え、右ほど水の割合が増えるようになっている。完全な水を出すときは、最も右に向けないといけない。これでは几帳面な人ほど、普段はレバーを中央にして使おうとして中途半端にお湯を消費しかねない。だったら、レバーが中央にあるときにでも「水」だけが出るようにすればいいのだ。それより右は、すべて水。場合によってはレバーは中央よりは右に回せないようにしても良い。単にこれだけ、お湯を使いたいときは意図してレバーを特別な向きにしないといけないようにデザインすればよいのだ。

簡単なことなのになぜそうなってないのか?まさか…もしかして自然にガスを浪費させようという未必の故意なのだろうか?
3.11の直後、福島第一の事故情報をわかりやすく解説したり、推察して説明したりするために、大学の先生方で構成する専門家チームが原子力学会に立ち上がった。予断を許さない状況であるにも関わらず情報が限定的、錯綜、専門的で理解しにくいなどの懸念があったためだ。先生方の活躍先は主に朝夕のニュース番組だったので、私は、よく知った先生の顔を、某テレビ局の朝のニュースで毎朝見るようになった。

事故の状況がヤマを越え、数ヶ月後、北九州で学会があったときに、宿泊先の安ビジネスホテルでバッタリその先生にお会いした。
東京大学の先生なのに、おそらく出身が関西方面なのだろう、独特のイントネーションで気さくにしゃべる姿は以前と変わらず、ホッとしてふたことみこと会話をさせてもらった。

特に当時の話は興味深かった。
その先生は1局の朝のニュースと別の1局の夜のニュースをボランティアで掛け持ちしながら、大学教授としての職務をこなされていたとのこと。

そのニュースは日曜日は無いから家に帰れたが、それ以外の曜日は、夜のニュースが終わると、翌朝のニュースのテレビ局が車で迎えにきて、テレビ局所有の隣接ホテルに泊まる。ホテルの部屋で執務をして、ちょっと寝て、未明から出動、朝のニュースに出て解説を終えたら大学。夕方に夜のニュースの対応…という、いつ寝るのか?みたいな生活だったようだ。

こういう普段と異なる業界の貴重な経験した先生だが、こんなこともおっしゃっていた。
「テレビ局出演の仕事のオファーがあったんだよ。でも、大学の仕事が重要だから断りましたけどね」
ありえる話だ。独特の癒しの雰囲気、毒もない、肩書きは十分で事実頭もキレ、話もうまい方なので。
他にもこういう話もあった。
「ただね、複雑な気持ちだったなあ。テレビ局にはそれほど多くの人がいるわけじゃない。でも、そこで決まった報道内容を国民が信用し、物事を判断して行く。世の中の重要なものが、(たった)あれだけのものに社会が大きく影響を受けている…」
規制庁の審議官が、公表前の文書を電力会社に手渡したとして更迭された、というニュースがあった。いかなる理由があれど、ルールや指針を破る•逸脱するのは許されない。また、この事象や、その報道のされ方によって、国民の不信は積み重なっていくだろう。また不祥事には、必ず複数の要因があると思う。単に懲戒や非難だけでなく、遠因まで立ち返った分析と再発防止や水平展開がなされるといいなと思う。

この審議官の方には、以前、国(前の原子力安全委員会)の検討作業に携わった時に、会議に出席されていたのを拝見したことがある。こちらは技術系という職種がら、お役人、特にキャリア(おそらく)に会うことはほとんど無いが、その方が「原子力規制の基準をわかりやすくして透明性を持たせたい」、(たぶん文系の役人だが)「生の検討作業に少しでも参加したい」との趣旨を述べられ、こちらも素直に「あぁ、お役人って意外とこういう使命感のある人が多いのかもな」と自分のステレオタイプ的な役人への不信感を素直に反省した。見た目、人柄も良さそうな感じだったと記憶している。なので、「あ、あの方だ」とニュースを見たときは驚いた。

しばしば思うことがある。原子力の安全の問題は、事業者と国が役割分担しながら取り組んでいかないといけない問題だ。個別のプラントの安全性は事業者責任という解釈で良いが、求める安全性のレベルと事業者の取り組みのレベルをしたたかに見つめて、そこに乖離があれば(普通はあるもの)そのギャップを埋めて行くのが規制戦略というものだ。
しかし、今の国の規制は大局的な判断がなく、まるで意地悪なお姑さんが嫁さんイビリをするがごとく、後だしじゃんけんでダメだしするばかり。
この要因の一つは、民主党時代に愚かな政治「家」主導によって、ルールメイキングが半熟のまま当該規制機関の設置が行われたことである。本来最重要である「原理原則」と「現場主義」の掛け算を忘れて、「時の原理主義」に迎合した結果、まともな社会の一端を担える行政機関に至っていないのである。

一般論でも使命や規範のどこか不備がある組織の中で、どのようにしたら良い組織、良い社会になるかを悩んだ挙句、使命感に基づいてあえて道を外れる「現場の人間」が出てくる。あいにく、このような行動は、短期的には糾弾されるのみ。大局的な適否は未来の歴史の中でしか判断されないものもある。もしかしたら、いやおそらく、上述の審議官の行動もこのような類のものなのかもしれないと考えてしまう。