春日大社から稱名寺へ吉城川をゆく | ブログ版『大和川水紀行』

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大和川流域の自然やイベント、祭事など訪ねた紀行記です。

10日、春日大社本殿で「献茶祭(けんちゃさい)」が営まれた。

表(不審庵)、裏(今日庵)、武者小路(官休庵)の三千家家元が毎年輪番で神前に献茶する行事で、戦後に始まった。

今年は裏千家が務めた。


春日大社境内の北を流れる水谷川(みずやがわ)は春日山から湧き出る聖なる川だ。

その川辺に鎮まる開運招福に霊験高いお社を巡拝する「開運招福水谷九社めぐり」がある。

その一つの「龍王社」は平成30年に創建1250年記念で140年ぶりに再興された。
龍王社は「春日五大龍神めぐり」の一つにもなっている。
平城京の水源は御蓋山(三笠山)や春日山で、その水源地に鎮座する「春日龍神」で、

雨乞の祈祷の際には春日大社へ詣り八龍神社、さらに春日山の香山龍王社にて祈りをあげると、必ず雨が降ったという。

今もその霊力が湧き出す境内を回って幸運招福する「春日五大龍神めぐり」がある。
 

参考:春日大社
https://www.kasugataisha.or.jp/
 

若草山と春日山の間の谷間から流れる水谷川は吉城川(よしきがわ)と名を変えて奈良公園内を流れる。

東大寺南大門から大仏殿への参道に石橋が架かっている。

名勝依水園と吉城園の間を流れ、その一部は両園の庭園に導水されている。


吉城園(よしきえん)は、「興福寺古絵図」によると同寺の子院「摩尼珠院(まにしゅいん)」があったという。

園内には「池の庭」「苔の庭」「茶花の庭」からなり、離れ茶室がある。
「苔の庭」はスギゴケの生育に適した環境で、奈良公園・飛火野と同じ地下水脈が流れているという。

 

参考:奈良県「吉城園」
https://www.pref.nara.jp/39910.htm

依水園を出てからの川相は三面コンクリート張りの都市河川となり、奈良街道が吉城川と交差するところに「威徳井橋」が架かっている。

この橋の北側にある押上町自治会館に、威徳井と彫られた小さな井戸枠がある。

この井戸は名水として知られ、昭和初めの道路拡張工事で橋の南側から、井戸枠だけ移設された。
昔、小野小町が奈良を訪れた際に、この井戸をみて「したしきが同じ流れや汲みつらん おとどひの子やいとこいの水」という歌が詠まれた。

吉城川と威徳井の水が兄弟のようであるという意味で、従兄弟井=威徳井となったという。

吉城川は住宅街を流れ、念声寺付近を通る斜道で暗渠になる。

念声寺の所で吉城川をまたぐ小さな橋の橋の下にいくつかのお地蔵さんと小さな祠があり、暗渠になったので川の上が道になり、お地蔵さんは地上に移転された。

中御門川と合流した吉城川は、中御門町を西へ、女子大北東角の永代橋を経て女子大裏、天平橋の袂で佐保川に合流している。


開創以来興福寺の別院とし、四宗(浄土宗、法相宗、天台宗、律宗)兼学の寺として、
明治7年(1874)の廃宗の令により興福寺を離れ現在に至っている。

佗び茶の基礎を確立した村田珠光ゆかりの寺だ。

珠光存命中の庵は焼失したが、茶の湯の為に汲み上げたと伝えられる井戸は当寺の場所に現存し、つくばい(蹲)も当時の物と伝えられている。
村田珠光手植の竹と伝えられる奈良生粋の真竹(まだけ)は、茶器の素材(特に茶杓)として愛用されたという。
元々境内の別の場所に竹林があったが、現在の地に移植された。
 

村田珠光(しゅこう、じゅこう)は1422(応永29)に現在の奈良市中御門町で生まれ、11才の時に出家して称名寺の僧となった。

後に京都の大徳寺で茶禅一味の境地を開き、喫茶に礼式を興した。

第8代将軍足利義政(1436-1490・銀閣寺を建立)は珠光に就いて茶道を学んだ。

京都銀閣寺東求堂に代表される書院茶の華美に対して、真の茶道は質実にして敬と礼を佗び茶の基礎を確立した。

その珠光が立てた礼式作法は後に武野紹鴎(1505-1555)、千利休(1521-1591)を経て今日に伝わり、各流儀のいづれもが村田珠光をその祖としている。

参考:西山浄土宗 日輪山称名寺
https://www.eonet.ne.jp/~syomyoji/index.html