世に「天才」と呼ばれたバッターは景浦将を筆頭に川上哲治、大下弘、中西太、
長嶋茂雄、王貞治、張本勲・・・と何人か存在するが、「鬼才」と呼ばれたバッターは、
これから紹介する前田智徳が出現する以前は榎本喜八ただひとりであった。
 かつて、時間をかけて「史上最強のバッター」を追い求めたことがある。通算1000
イニング以上投げたピッチャーに「最強打者は?」という質問をぶつけたところ、
意外にも最も多かったのが「榎本喜八」の名前であった。
 たとえば通算276勝の稲生和久はこんな感想を述べた。
「対戦した中で最高にして最強のバッター。構えたままで見切る、ボールの見送り方が
嫌だった。無気味なくらいの集中力を感じました。シュートもスライダーもきれいに
打たれてしまうので、榎本さんにだけはフォークを投げた。たったひとりのバッターを
おさえるために新しいボールを覚えなければならなかったんです。榎本さんとの勝負だけは
野球をやっている感じがしませんでした。スポーツではなく真剣勝負、そう、果たし合い
だったような気がします。」
 通算187勝の足立光宏はこうだ。
「榎本さんのは同じヒットでもボテボテじゃなく完璧に芯でとらえたヒット。自信を持って
投げたボールをきっちり打ち返してくるんです。それも機械のような正確さで。いってみれば
球界の宮本武蔵。打率でははかり知れない怖さを感じました。」
 榎本喜八――実働18年、通算2314安打(12位)、246本塁打(39位)、
979打点(26位)、通算打率2割9分8厘。’60年(3割4分4厘)と’66年
(3割5分1厘)に首位打者を獲得しているものの、数字だけで判断すれば「史上最強」と
呼ぶには、いささか物足りない。
 にもかかわらず、榎本と同時代に生きたピッチャーは3000本安打の張本勲や
戦後初の三冠王・野村克也、あるいは“怪童”中西太のさらに上に榎本の存在を
位置づけようとする。私にはそれが不思議だった。
 少年の頃の記憶といえば、晩年の姿でしかない。一、二塁間を真っ二つに割る強烈な
ライナーが印象に残ってはいるが、それでも王貞治の豪快さや長嶋茂雄の華麗さを
上回るものではなかった。
 古いテープを取り寄せ、繰り返し見ているうちに、やっと榎本の偉大さが理解できた。
同時にピッチャーが榎本を恐れる理由も理解できた。
 何が凄いかといって榎本の打球はミリ単位も左右にブレないのだ。順回転のスピンで
猛禽のように野手を襲うのだ。順回転のスピンというのは、すなわち寸分の狂いもなく
ピッチャーが投じたボールを打ち返している証拠であり、ピッチャーにしてみれば
何一つとして言い訳が許されない。さながら一太刀で眉間を割られたようなものだろう。
 榎本には伝説がある。ライトや右中間スタンドに突き刺さるホームランは、何人もの
負傷者を生み出した。打球を取ろうとしてよけ切れず、顔に硬球を受けて昏倒した者まで
現れた。
 私は何度も榎本に取材を申込み、中野の自宅にまで足を運んだが「修行中の身で
ございます」と言って断られた。庭には廃車となった自家用車が雨ざらしになっていた。

右足のアキレス腱を断劣するまで
前田はまぎれもない「天才」だった。
どんなウィニングショットにも
容易に対応することができたのだ。

 前田智徳もまた「孤高」のバッターである。
 いつだったか「理想の打球は?」と問うと、彼は腕組みをしたままウ~ンとうなり声を発し
「ファウルならあります」と言った。
 彼は打率やホームラン数、打点などには一切、興味を示さない。彼にとって数字や、
その延長線上にあるタイトルは、言うなれば世俗に過ぎないのだ。モチベーションを
喚起する対象にはなりえないのである。
 前田智徳という男を知る上で、これ以上ないと思われるエピソードがある。カープの
先輩で、昨年ジャイアンツを引退した川口和久から聞いた話。
「もし、ど真ん中のストレートで勝負されたら“オレはその程度の選手なのか!"と言って
怒り出すようなタイプ。実際、オープン戦で、ある左ピッチャーのへなちょこボールに対し、
3球ともバットを振らず、見逃し三振に倒れてベンチに帰ってきた。“なぜ振らないんだ?"と
聞いたところ“あんなボール、振る気にもならん。プロのボールじゃない"と。前田とは
そういう男なんですよ」
 昨シーズン、首位打者のチャンスがありながら最終のベイスターズ戦を欠場した。
出場しても敬遠されるとの読みもあってのことだろうが、もとより前田にはタイトルに対する
こだわりがないのだ。ピッチャーが投じた渾身のウイニングショットを完璧なスイングで
ねじ伏せることこそが、すなわち彼にとってはバッティングという行為における至上の
価値に他ならない。いささか大時代的な表現だが、飽食の世にあってひとり彼だけは
冥府魔道の世界に生きているのである。
 それでも昨シーズン、前田はリーグ2位の3割3分5厘という打率を残し、与那嶺要が
保持していたセリーグの猛打賞記録を46年ぶりに塗りかえた。シーズン中ずっと左足の
ふくらはぎに違和感を覚えていた打者が容易になしとげられる芸当ではない。
「鬼才」の片鱗は、こんなところからも窺える。
 足を引きずりながらでも、これだけの成績を残せる前田の資質について語り始めると
きりがないのだが、失った時間は返らないと知りつつも、時計の針をもう一度、あの瞬間の
1秒前に戻すことはできないものなのか。今でもふとそう考えることがある。

 1995年5月23日、神宮球場での対スワローズ戦、前田は打者走者として一塁へ
駆け込んだ際に右足アキレス腱を断裂、ほぼ一シーズンを棒に振った。翌年、105試合に
出場し、見事カムバックを果たしたものの、傷めた右足をかばって肉離れを起こすなど、
彼は満身創痍の状態でのプレーを余儀なくされ続けた。
 忘れもしない、カムバック直後のことだ。アキレス腱の状態について訊ねると、彼は
真顔で答えた。
「いっそのこと、もう片方(のアキレス腱)も切れんかな、と思うとるんです」
 私は一瞬、言葉を失った。
「両方切れるとバランスがよくなるというんです。それで元に戻れるんやったら・・・・」
 続けて「前田智徳というバッターは死にました」とも言った。
「普通のバッターだったら、カムバックしてこれだけヒットを打つことはできない」と
励ますと「いや、あれは高校生が打っているんです」と取りつくシマもなかった。足の不調に
苛立っていたのではない。足の不調が原因で、斬るか斬られるかの真剣勝負を
戦えないことを、彼は悲しんでいたのである。
「もう、僕のことなんか書かんでええでしょう・・・・」
自虐的な口調で前田はつぶやいた。
 会話はそこで途切れた。

 右足のアキレス腱を断裂するまで、前田はまぎれもない「天才」だった。狙い球を
しぼるわけでも、バッテリーの配球を読むわけでもないのに、彼は一線級のピッチャーの
投じるどんなウイニングショットにも容易に対応することができた。
 スワローズの伊藤智仁はスピンのきいたストレートと高速スライダーを持つ日本で最高の
ライトハンダーだが「前田さんだけには何を投げても打たれるような気がする。他の
バッターとは執念が違う」としみじみと語った。
 アキレス腱を断裂する1年前には、こんなシーンも出現せしめた。’94年5月18日、
ジャイアンツの槙原寛己はカープ相手に史上15人目のパーフェクトゲームを
達成したのだが、このゲームを前田は欠場していた。
「この借りは絶対に返す・・・・」
 7月9日、地元・広島市民球場でのジャイアンツ戦、前田はバックスクリーンへの
大アーチで槙原に借りを返した。
 直後に彼は語った。
「パーフェクトゲーム以来、槙原さんが出てくるとアツくなりました。明らかに普通とは
違った緊張感がありました。そうした逆境が僕を燃えさせるんです。」
 ケガをする以前、前田のバットは“まるで魔法の杖"だった。まるで劇画のように次々と
奇跡を生み出した。三冠王3度の落合博満をして「今の球界で本当の天才は前田
だけだよ」と言わしめたのもこの頃である。
 前田は語っている。
「でも、僕の場合、努力したことはなかったんです。普通通りのことをやっていただけ。
バッティングコーチから新しいことを教わっても、すぐにできた。
 どちらかと言えば天性でやっていたんでしょうね。神様から与えられた素質だけで。
だから(あのケガで)すべてが崩れた、もうわけがわからなくなってしまったんです・・・・」
 
右足アキレス腱を断裂して以来、前田のバッティングフォームは明らかにかわった。
右足への負担を軽減するため、それまで以上に後ろ足(左足)に体重を残すようになった。
「もう打席に立っているのがやっとという時もあった。ピッチャーに“頼むから急いで
投げてくれ"と言いたくなる時もありました。」

 かつては打ってよし、走ってよし、守ってよしのオールダウンダーだった。ゴールデン
グラブ賞にも4度、選ばれた。悪魔に見染められさえしなければ、イチローより先にメジャー
リーグでプレーする機会を得ていたかもしれない。
 ノスタルジーにかられて、前田への思いをつづっているわけではない。前田を「天才」と
する私なりの根拠がある。それは彼の自然体のフォームに起因する。
 入団以来、基本的に彼は同じフォームで打ち続けている。どんなボールに対しても、
すんなりトップの状態に移行し、フルスイングを制限されることがない。
 その対極にいるのが、王貞治でありイチローだ。彼らは右足の処理に悩んだ対価として
一本足打法、振り子打法という新境地を切り開いた。陰の努力が持って生まれた資質を
全開にしたわけである。
 新打法の開発に余念がない松井秀喜もそうだ。さらなる高みを目指すには過去を
克服しなければならない。進化し続けるその過程にこそ怪物たる所以はある。
 翻って前田には克服すべき命題が最初から存在しなかった。どんなボールも、どんな
コースも、自らの判断にミスさえしなければ、きちんと順回転のスピンをかけて、外野の
芝の上に踊らせることができた。
 彼は18.44mの空間で繰り広げられる剣豪同士の果たし合いに、ひたすら勝利し
続けた。スワローズの伊藤智仁のような互いに腕を認め合った“同好の士"とは、選ばれし
者にしかわからない無言の会話を楽しむことができた。それが彼にとってのゲームだった。
「でも、もう昔のワシじゃないんです・・・・」
 アキレス腱を断裂したことで、はじめて「天才」に克服すべき対象が突きつけられたのだと
したら、これ以上の皮肉はない。私たちはそれを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
 足元が安定せず、ゴンドラのように体を揺らせながらも、それでも硬球の中心を確実に
射抜き続ける復帰後の前田には、もはや「鬼才」という形容がよりふさわしかろう。
 手負いの狼のように目に鈍色(にびいろ)の光を宿しつつ、されど伝説はまだ生きている。