大学でうちの学科は4年生になる時に専門分野を決めて担当の教授に付くことになっていた。4月になって、教授室の隣の研究室に自分の席と専用の実験スペースを貰い、研究者見習いとしてのスタートを切った。この時、他の研究室から移ってきた修士課程の大学院生が1人、同じ研究室に来た。1年先輩であるが、実は同い年、彼の方が1週間ちょっと年長である。田舎の公立高校で遊んでいた私は、都会育ちの彼より大学に入るのが1年遅くなったからである。
彼は別の階の部屋に席を貰ったのだが、お互い研究の都合で頻繁に行き来するので、毎日何度となく顔を合わせることになった。彼は前年度、学部4年生ながら外国の学術雑誌に論文を発表していた。私はそんな彼を素敵だと思い、その後、国内の雑誌ではあったが論文を書きまくることになる。
彼はそれ程社交的な性格ではなかったので、ごく親しい友人というのは多くはなかったようである。特に研究室の中では少し浮いた存在であった。そんな中で、一番親しかったのが私である。別に一緒に遊びに行く訳でもないが、お互い最も安心して話が出来る相手であったと思う。
夏のある夜のこと、研究室に誰かが持ってきたお土産のキウイフルーツが1つ残っていたので、それを冷蔵庫に入れておいた。研究室には他に誰もいなかったが、暫くして予想通り彼がやってきた。私はキウイフルーツを取り出し、包丁で剥いて、彼と半分ずつ食べた。彼の家ではキウイは半分に切ってスプーンですくって食べるが、我が家では包丁で剥いて食べる、そんな話をして笑った。
彼が博士課程1年の時、国家公務員 I 種試験を受けることになった。修士課程2年の私も話の種に受けてみることにした。彼は首席で合格、全然勉強していなかった私は12番であった。バブル絶頂期の一歩手前、誰も公務員になんかなりたがらない。当時の I 種試験は、うちの大学でちょっと器用な奴なら誰でも合格できる状態であった。彼は筑波研究学園都市にある研究所の研究者にでもなりたかったらしい。ところが程なく、彼は文部教官助手として採用されてしまった。実は私の方がそのポストを狙っていたのである。しかし、彼に勝てるはずがない。私は心から彼の任官を祝福し、自分は彼が考えていたのとは別の省庁であるが、公務員になろうと I 種試験の勉強を始めた。この試験は有効期間が3年あるので、博士課程1年で合格すれば、修了後任官することが出来るのである。
翌年の I 種試験の一次試験の会場に、なぜか彼の姿があった。どうやら文部教官を辞めて、以前考えていた研究所に勤めたいらしい。もうこんな試験受けなくても話を付ければ移れる筈なのだが、彼自身けじめを付けたかったのであろう。お互い行きたい省庁が違うし、合格することは分かり切っている。どっちが1番でも2番でも関係ない。まあ、彼が1番で、私は2~3番だろう。休憩時間には、いつものように二人でふざけ合っていた(必死で受験してた周りの人たち、ごめんなさい)。また、既に官僚になったのに、別の省庁に入りたくなったと言って受けに来ている同級生の姿もあった。
ところで、当時この I 種試験には変なジンクスがあった。首席で合格すると官僚として大成しないというのである。首席で合格して官僚になると、不祥事を起こすか、気が狂って自殺するか…そんな不吉なことが言われていた。彼も私も、そんな噂は特に気にしていなかったのであるが…。
二次試験は人数がぐっと絞られ、うちの大学で行われるのだが、試験会場で彼がどこにいるのか分からなかった。そして最終面接は霞ヶ関でやるのだが、そこに彼の姿はなかった。どうやら、大学の上層部からストップが掛かったらしい。ということで、今度は私が不吉な順位で合格してしまったのである。それには彼も少し驚いていたが、喜んでくれたようである。
結局私は官僚にならなかった。不吉な順位のせいではない。行こうと思っていた省庁の方向性と担当者の誠実性に疑問を感じたのである。その研究所は行革のため、現在は独立何とか法人となって、何だかよく分からないものになっている。そして、その後結局私は道を誤ることになるのであるが、そのことについてはここでは触れないことにする。
私が博士課程を修了してとんでもない会社に就職するまで、彼は文部教官助手で大学に残っていた。そのことについては本人とは話していないが、どうやら彼は間もなく大学を辞めるらしい、そんな噂は聞いていた。その後十数年、彼のことは気になってはいたが、連絡は取っていなかった。
数年前のことである。彼も私もお世話になった大先輩、現在は学会の重鎮になっている大先生の大学に別件で行く用事があったので、その先生の研究室にも遊びに行った 。色々と昔話をしていて、彼のことも訊いて見た。私が大学を離れた少し後に彼は亡 くなったとのことであった。