Die Ruine der Walhalla

Die Ruine der Walhalla

In dieser Ruine findet man nichts.

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プッチーニの「ラ・ボエーム」、第一幕では臨時収入が入ったショナールがボルドーワインを買って帰り、みんなで乾杯する場面がある。Bordò はボルドーワインに間違いない。ドニゼッティの「愛の妙薬」の正体もこれであった。

さて、第二幕でカフェ・モミュスでメニューを見ながらショナールとコルリーネがギャルソンに立て続けに注文する場面である。ショナールが Vin del Reno、間髪入れずにコルリーネが Vin da Tavola と言う。



直訳すれば前者がラインのワイン、後者がテーブルワインとなる。後者は後のイタリアの法律でも産地やブドウ品種、年号などのこだわりのない安価な日常用ワインとして定められている。フランスでも Vin de Table が全く同じ意味である。恐らく当時も普通のワインという意味で用いられていた言葉で、日本の居酒屋で「ハウスワインください」という感じであろう。

ここで問題にする「ラインのワイン」、フランス語に直訳すれば Vin du Rhin となる。フランス東部のアルザス地方はライン川の西岸に位置し、現在でも Haut Rhin(上ライン)県と Bas Rhin(下ライン)県からなる。その両県を実際に旅行してみると県境はあまり意識できないのだが、いずれの県も高品質なワインを生産している。したがって、現在のフランス人がこの(外国人が書いた)リブレットを見れば、アルザスのワインのことを言っていると思うに違いない(実際にはアルザスワインのことを Vin du Rhin と呼ぶことはないが)。

アルザスワインはごく一部を除いて白ワインが殆どである。実はパリの庶民は基本的に赤ワインしか飲まないので、これを注文することに(そもそも庶民的なカフェのリストにあることにも)かなりの違和感を感じていた。更には、この時期にアルザス地方はドイツ領になっていたので、高級レストランであったとしてもアルザスワインの入手は現在に比べて遥かに困難であったと考えられる。現在でもパリで普通にワイン漬けの生活をしている人間がドイツワインを見掛けることはあり得ないのである。

ショナールが Vin del Reno と言うなりすぐにコルリーネが Vin da Tavola と普通の注文をしていることから、ショナールの言葉は実際に注文しようとしたのではなく、ふざけて言った言葉なのであろう。彼らの会話には、頻繁に教養をひけらかした言葉が見られるから、その類ではなかろうか。色々考えてみたところ、この Vin del Reno は、実はゲーテの戯曲「ファウスト」に出て来るものであるに違いない。

悲劇の第一部、ライプツィヒの酒場で学生たちが酒を選ぶ場面、Frosch が出身地の Rheinwein を飲むと言う。



これをイタリア語にするとこうなる。
 

 

つまり、彼はカフェに集まった自分達の状況を、ファウストに出て来る学生たちが酒場に集まった光景に重ねて洒落ているのである。

こう考えると、注文を取りに来たギャルソン役の俳優は、Vin del Reno と言われて一瞬怪訝そうな顔をし、Vin da Tavola で頷くのが適切な演技ということになる。

ちなみに現在の日本でラインワインと言えばライン川右岸のドイツワインを指す。昔はどこのワイン売り場にもずらりと並んでいたが、近年はほとんど見かけなくなってしまった。大きなスーパーなどでよく探すと、リープフラウミルヒ Liebfraumilch という聖母マリアの絵が描いてある茶色くて細長い瓶のワインが千円程度で売られていることがある。これは一応ちゃんとしたラインワイン(のほぼ最低ライン)である。やや甘口・低アルコールで、よく冷やして飲んだら美味しいと思うが、ファウストの時代、あるいはラ・ボエームの時代のラインワインがこのような味であったのか否かは保証の限りではない。一方フランスのアルザスワインは本格的な辛口ワインで、それなりの値段がする。

高校の数学で訳が分からず終わることが多い分野の一つに軌跡がある。解答・解説を見ても何だか騙されたような気がしてしっくりこなかったという経験をされた方も少なくないと思う。今回はその軌跡で遊んでみよう。

問題 tを任意の実数とする。
平面上の2直線、
 t-t=0 …… ①
 +t-2t-1=0 …… ②
の交点の軌跡はどのような図形であるか示せ。

さて、こいつをどうするか?交点の話をしているのだから、四の五の言わずにまずは交点を求めてみよう。

①より、=t-t=t(-1)を②に代入して整理すると、
 =(t+1)^2/(t^2+1) …… ③  (^2は2乗を表す)
これを=t(-1)に代入して整理すると、
 =2t^2/(t^2+1) …… ④

この時点でが表す図形を媒介変数表示で示しているので、部分点はもらえるはずだが、やはりtを消去しないと軌跡がどのような図形になるのか分からない。

④より、t^2=/(2-) …… ⑤ (≠2のとき) なお、=2とすると、④より 2t^2+1=2t^2 となり、これを満たす実数tは存在しない。

③を上手く変形して⑤を代入、整理すれば、
 (-1)^2+(-1)^2=1 (ただし≠2)
これは点(1,1)を中心とする半径1の円、但し点(1,2)を除く、と分かってめでたしめでたし。答案なら図を書いて(1,2)の位置に白丸を書いておけばよろしい。

と、これでは何の面白味もない。ここで③と④をもう一度眺めてみよう。ほら、t=tanθと置きたくなったでしょ。(笑)

t=tanθ(0<θ<π/2,π/2<θ<π)を代入して整理すると、
 =1+sin2θ
 =1-cos2θ
θを消去すれば、(-1)^2+(-1)^2=1
t=tanθと置いたんだから、θ≠π/2な訳で、()≠(1,2)

実際に自分で計算してみると面白いのだが、ブログだけ読んでも分からないだろう。(笑)

例によって何の脈絡もなく突然歴史の話。

 

天皇を中心とした公家勢力が政治の実権を握っていた時代から武士が政治を行う時代に移り変わるにあたって、武士の棟梁の官位の問題が生じた。形骸化したとは言え、律令で定められた官位は厳然として存在し続け、令外官の関白や中納言等も含めて、単なる名誉職とは言い切れない力を持っていた。

 

最初に実権を握った武士である平清盛は公家の官位と同じラインに乗ることになった。大雑把に言えば正三位参議→権中納言→従二位権大納言→正二位内大臣→従一位太政大臣と進み、出家して後に准三后宣下を受けている。

 

次に天下を取った源頼朝も正二位権大納言右近大将にまで昇っているが、官職を辞した後に征夷大将軍となっている。武家の権力者は公家の官職とは別のものであると宣言しているかのようである。それ以降、長期政権となった室町、江戸両幕府の歴代トップも征夷大将軍となり、大抵はそれなりの官位が与えられていたが、参議であろうが左大臣であろうがあまり関係なかった(概ね年功で上がって行っただけである)。

 

さて、幕府のトップである征夷大将軍以外でも一時的に天下を取り武家の棟梁となった人物が二人いる。織田信長と豊臣秀吉である。

 

織田信長は1573年に室町幕府最後の将軍である足利義昭を追放し、数年のうちに反対勢力を次々と滅ぼして実権を握った。権大納言右近大将から右大臣にまで昇っているし、左大臣昇任も内定していた。記録では信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想もあったが、本能寺の変により実現しなかった。

 

羽柴秀吉が天下人となった頃、それにふさわしい官位を得たいと思ったが、出自の卑しい彼は征夷大将軍(従来は源氏限定、信長の話を考えれば平氏も可?)、関白(藤原摂関家、当時は五摂家限定)にはなれないと悩んだと、時代劇では描かれることが多い。しかし、1584年に従三位権大納言に叙せられた時に征夷大将軍兼任を勧められたが断ったとの記録があり、話が違ってくる。翌年正二位内大臣に昇っており、そのまま進めば信長同様右大臣→左大臣と昇って天下人としては十分な筈であった。

 

しかし、この1585年に近衛前久の猶子となり、関白宣下を受けた。翌年天皇から豊臣姓を賜り、太政大臣も兼ねた。武士が関白になったのは豊臣氏が最初で最後である。位階人臣を極めた秀吉は、もう征夷大将軍には興味を示さなかったようである。

 

ところが、室町幕府第15代将軍足利義昭はまだ征夷大将軍職を辞していなかったし、将軍職を剥奪されることもなかった。信長か秀吉が征夷大将軍に就いていれば、義昭は将軍ではなくなり、室町幕府も名実ともに消え去っていた筈である。実際には義昭は信長に京都を追われた後も、征夷大将軍として戦国大名同士の争いの和睦を仲介したり、形だけとは言え将軍の仕事を続けていたのである。

 

名実ともに武家の棟梁、公家も加えても最高位となった秀吉であるが、彼はこの征夷大将軍の存在が気に入らなかったのであろう。1588年、都に戻った義昭は秀吉に連れられ参内し、征夷大将軍を辞して准三后となる。これで義昭の面目も保ちつつ、秀吉が唯一無二の天下人となった。

 

私が思うに、これが秀吉最大の失策であった。幕府はなくなり、征夷大将軍が空席となったのである。秀吉の死後、豊臣政権は形骸化し、実権を握った徳川家康が征夷大将軍となった。豊臣秀頼よりは官位が下であっても、征夷大将軍の名前は大きい。やがて徳川氏は豊臣氏を滅ぼして天下を取ったのである。

フランス語の発音が難しいと言う人は少なくないが、大きく分けて二つの理由がある。一つ目は綴り字の規則がローマ字や英語からかけ離れていること、もう一つは鼻母音等の特殊な発音があることである。


前者は単に学習者の怠慢である。綴り字と発音の対応の規則を覚え、よく使う初歩的な単語でいくつかの例外があることさえ覚えてしまえば、フランス語の発音は規則的で迷うことはない。英語の場合、aの字があっても「ア」と読むのか「エイ」と読むのか迷うことがあるが、フランス語ではそのような心配はないのである。外来語の場合は不規則な読み方もあり得るが、分からなければフランス語読みしておけば通じる。


後者もある意味学習者の怠慢であるが、英語に比べて学習を開始する年齢が高いことに原因があるのかも知れない。今日日本において英語を習い始めるのは小学校、暫く前でも中学に入るとすぐ全員が英語の学習を義務付けられていた。しかし多くの日本人にとって、フランス語を学び始めるのは大学に入ってからである。英語を学び始めた子供が、thって舌を噛んで発音するのか…、rって舌をヘンに曲げて発音するんだ…と目を輝かせて学んでいた純粋さが、18歳を過ぎると失われてしまうのであろう。フランス語独特の音に興味を覚えるのではなく、単に面倒臭いと思ってしまうのである。


さて、そのような怠慢な人はほっといて、フランス語を美しく話すためのポイントをいくつか思い付くままに並べてみよう。



1.鼻母音は明確に区別


フランス語の鼻母音は本来4つある。


一つ目は口を小さく開き、「ア」の力が抜けて、「ア」と「オ」の中間位に聞こえる音を鼻に抜いたもので、anあるいはen(nがmになることもある、以下同じ)と綴られるものである。はっきりと「アン」に聞こえるように発音しても(日本人はそれ程口を大きく開かないので)通じるが、美しくない。


二つ目は(普通はこの順番には論じないだろうが、諸事情により)「オ」の音が鼻に抜けたもので、onと綴られる。一つ目と似ているようだが、明らかに舌の位置が違うので、意識して発音すれば確実に区別できる。


三つ目は口を大きめに開き、「ア」と「エ」の中間の音を鼻に抜いたもので、in、ain、ein等と綴られる。パリの庶民が発音すると何だか独特の汚い音に聞こえるが、まあこの音を聞くとパリへ帰って来た実感がある。


四つ目は一つ目の音に「エ」が混じったような音で、unと綴られる。しかしパリ近郊の庶民階級の間では、この音は20世紀末迄には完全に失われており、三つ目の音で発音して良いことになっている。


さて、これらを順に「アン」(口が小さめ)、「オン」、「エン」(口を少しひん曲げる)、「エン」(同)と読めば通じることは通じる。しかし、これらを丁寧に練習することがフランス語を美しく話す重要なポイントの一つとなる。然るべき手本を聴いて、しっかり練習すべきである。尚、フランスは完全な階級社会であり、言葉遣いは江戸時代の武士と町人程に異なるので(21世紀になるとそれ程でもなくなってきたが…)、フランス人なら何でも手本にして良い訳ではない。ちゃんとした教育を受けていない下層階級のフランス人の発音は真似をしてはならない。この点はイギリス英語と同じである。


そして、四つ目のunの発音を美しく決めること。これが出来れば、ホテルでも店でも、従業員の態度が一変するであろう。



2.RとS


子音で英語と大きく異なる代表として最初に取り上げられるのがrであろう。喉を微かに震わせるのが正式な発音で、ドイツ語でもこれに近い音が正式な発音とされるがいずれも巻き舌でも通じる。この音が完璧にフランス式に出来なくとも、それ程問題ではないような気がする。多少ドイツ語訛りになっていても、あるいはイタリア語訛りでも、美しくないとまでは言えない。英語特有の音にだけはならないように気を付けていれば良いと思う。


次にsの音であるが、英語式でも日本語式でも完全に通じる。しかし、フランス語らしく聞かせるには、この独特な発音を練習しておく必要がある。舌の先を上ではなく下の前歯の裏に当てる感じで意識して練習すると良かろう。まあ、イタリア語訛りの人は直さなくてもいいかも知れない。(笑)



3.Ch/JとK


Chの音は日本語のシャシシュシェショ、jはそれに濁点を付けたもので完全に通じる。しかし、この音は他のいくつかのヨーロッパ語と同様に口を突き出して発音することになっている。僅かな違いのようだが、これが出来ると美しく聞こえると思う。


Kが語尾に来る場合、「ク」よりも「キ」に聞こえるように意識すると良い。ステークではなくステーキのほうが美味しそうである。(笑)



4.TとL


ここまで来るとあまりうるさく言う人は少なくなって来るが、一言でいうと英語訛りは美しくないということである。英語訛りになるくらいなら、日本語のタ行とラ行の方がまだ美しく聞こえる。


Tの音を発音する時に舌の先が当たる位置は英語の場合とはかなり異なっている。上手くできなければ、英語式よりもむしろ日本語のタ行の方が良い。この場合、「タティトゥテト」なんて中途半端なことはせずに、開き直って「タチツテト」にしても良いと言われることがある。勿論完全に「チ」や「ツ」ではないが、「ティ」を強めに発音して「チ」に聞こえる感じの音が良い。二人称のtuなんか、「テュ」よりも「チュ」に聞こえることは経験された方も多いと思う。


Lが英語式ではぶち壊しになる。まだ日本語のラ行の方が遥かにましである。明治時代にローマ字を作った時、ラ行をrで表したのは、英語のlとrを比べたらrのほうが少し似ているような気がしたからであろう。これは英語のlが変に曲がりくねった独特な音になってしまっているからである。もしフランス人やドイツ人がローマ字の制定に関わっていたら、確実にlになっていたと思う。



5.迷ったら全部リエゾン


現代の庶民の日常会話では、リエゾンをする率が大きく下がっている。元々リエゾンしてもしなくてもいい場合は少なくないのだが、迷ったらリエゾンしてしまおう。その方が上品で美しく聞こえる。


若い頃フランス人の個人レッスンを受けていた時のこと、テキストの会話文を教師がリエゾンせずに読んだ。私はテキストを見ながらそれを復唱するのだが、テキストの綴りに引っ張られてリエゾンして読んでしまった。すると、フランス人教師は慌てて、私が読んだようにリエゾンして言い直したのであった。



もっとも、言うまでもなく個々の音の発音の正確さ以前の問題として、リズムやイントネーションが違っていてはぶち壊しになるのは、どの外国語でも同じことである。しかし、意外にもこれが出来ていない人が多い。これは日本の義務教育の英語教育が不完全なためであろう。今や田舎の公立中学でも外国人の英語助手がいる。ところが日本人英語教師の問題意識が低過ぎて、英語の正しい発音・リズム・イントネーションを殆ど練習させていないのである。

我々人類と呼ばれている霊長類の一種、Homo sapiens L. が、多くの霊長類だけでなく、かつて存在した他のHomo属の種とも異なり、高度な知能を持って文明を築き上げてきた理由の一つが、目の前に現実には存在しない物を想像し、考察できるからだという説を聞いたことがある。イヌやネコでもごく最近に怖い思いをした経験があれば、その記憶が蘇って恐怖に慄くことはあるかも知れないが、現実に体験したことのない恐怖を想像して怯えるようなことはあり得ない。ところが、人間はまだ具現化していないリスクにも思いを致すことが出来るため、高度な文明社会を築き上げてきたのである。


今日の科学文明社会においては、未知のリスクもすべて科学的に考察することが出来る筈であり、想定外のことが起こったというのは、事前の考察が足りなかったのだと後から非難されることになる。ところが、まだ科学が発達しておらず、突如起こる天変地異や不運の理由が十分に説明出来なかった時代には、目に見えぬ何か大きな力が世界を、人間の運命を動かしているのだと人々が考えたのは、ごくごく自然なことである。ここにおいて人間は神なるものが存在するとを考えた。そしてそれについて多くの人が考察し議論することによって共有され、やがて社会の中に定着することで、宗教となった。したがって、宗教というのはHomo sapiens L. にとって本能的なものと言うことが出来るかも知れない。


ところで動物には様々な本能的欲求があるが、大きく分類すれば生き延びるための欲求と子孫を残すための欲求に集約される。もっと大雑把に言ってしまえば、食欲と性欲である。高度に文明が発達した我々の社会においては、これらの欲求をあからさまに示すことは良くないとされてきた。しかし、動物的な欲求を覆い隠し、高度に文化的、精神的なものとして扱うことで、これらが高尚なものとして扱われることもある。


「腹が減った、ひもじい」と叫び、食物にありついたらガツガツ食べるのは卑しいことである。ところが、食文化に思いを馳せ、食材の産地や旬について語り、調理法や盛り付けを工夫して味わうと、グルメでかっこいいということになってしまう。魅力的な異性に対して露骨に性欲を現したら変態であるが、相手の魅力を美辞麗句で賛美し、崇高な恋愛について語れば、詩や小説やその他の芸術作品が生まれたりもするのである。


では、我々Homo sapiens L. のみが持つ宗教を求める本能はどうであろうか?これもやはり、露骨に顕すのはよくない。


この科学文明社会にあっても、自分の心の弱さをさらけ出し、それを神仏が救ってくれるのだと、宗教にそれほど思い入れのない人間に対して真顔で語る人がいるが、これはあまり褒められたことではない。慎み深い人々の集まりの中で、〇〇したら気持ちよかったと鼻の下を伸ばして下品に語るのと大差ないではないか。


もっと始末に負えないのが、新興宗教を周りの人に押し付けようとする人間である。これはいわば、気持ちいいんだからいいじゃないかと、好きでもない相手にやたらと性的関係を求めるのと同列の破廉恥な行為である。


我々が生きる現代の科学文明社会において、宗教はその正当性を大きく損ない、存在価値を低下させていることは間違いない。では、宗教は既に役目を終えたのか?少なくとも私はそうは思っていない。宗教は今なお、いわば文学や芸術と同様に人間の心を豊かにする役割を担っているのである。


有名な悲劇の素晴らしい舞台を見たら、感性豊かな人間は涙を流すであろう。それが完全な作り話だと知っていてもである。あるいは、実際にはあり得ない話だと分かっていても、感動させるストーリーは少なくない。アニメの世界でも、そのような芸術の域に達しているものもある。また、芸術における古典的な様式美は、現代人の冷めた目から見れば確かにワンパターンかも知れないが、その美しさは常に人を感動させ続けている。


中にはそれらの作品に感動している人間を馬鹿々々しいと揶揄する人もあるだろう。しかし、多くの人はそれらを尊敬し尊重して、公にも文化として伝承し、発展させてきたのである。


我々の生活習慣の中には、本来宗教的儀礼であったものから変化したものも少なくない。季節の行事の多くも宗教行事に由来している。宗教に由来する習慣を生活の中で上手く楽しみ、活かしていくことが、現代のHomo sapiens L.の正しい在り方だと思う。

英語を習いたての時、注意力が散漫な子供が犯す誤りでよくあるのが、father を「ファザー」と発音することである。Mother が「マザー」なのだから、同じように読めばいいと思うのであろう。この際 th の発音なんかどうでもいいが、[fɑ:]が[fʌ]では通じる筈がない。早口だと長短が曖昧に聞こえることもあろうが、明確に違う音であることを意識しなければならない。

 

長短の区別があることはドイツ語でもまったく同じで、Vater は「ファーター」と伸ばすが、Mutter は「ムッター」と短く、むしろ詰まって発音する。ところがラテン語では正反対で、pater は「パテル」と短母音なのに、mater が「マーテル」と伸びる。

 

イタリア語は長母音・短母音の区別がやや曖昧になっているが、ラテン語のアクセントの規則をほぼ受け継いでいるので、長音節の最後に子音がなければ長母音、子音があれば短母音となることが多い。Padre 「パードレ」と madre 「マードレ」が同じ長母音に聞こえるのは、ラテン語の長短の細かい規則が消滅したことと、アクセントがある短音節というものが、現代のイタリア語においては違和感があるためであろう。

 

日本語の場合、本来長母音というものはないが、連続する2音節が変化して、現代語では長母音のように発音されるようになった音がある。元々2音節であったし、仮名で書けば2文字ある訳で、これを我々が誤って短母音で発音することはあり得ない。何が言いたいかというと、日本人は西洋人以上に母音の長短に敏感だということである。

 

一方で、母音の長短を気にしない言語もある。その代表がフランス語であろう。11月が近付くと、Beaujolais Nouveau を何と読むのか迷っている人がいる。「ボージョレー・ヌーヴォー」なのか「ボジョレー・ヌーヴォー」なのか…と。フランス人にゆっくり発音してくれと言えば、間違いなく「ボージョレー・ヌーヴォー」となる。しかし、普通に読めば「ボジョレー・ヌーヴォー」あるいは「ボジョレー・ヌーヴォ」と聞こえるし、早口で言えば「ボジョレ・ヌーヴォ」になるし、思いっ切り早口なら「ボジョレ・ヌヴォ」になってしまう。フランス人にとって母音を長く伸ばすということは、それによって音を区別することではなく、単にゆっくりと読んでいるだけなのである。そのゆっくりも、その語を強調したい場合もあれば、単に次の言葉が出て来なくて間延びしている場合もあり、特に意味がないことも少なくない。

 

このように言語によって音の仕組みが大きく異なることを考えようともせず、自分が分かる狭い範囲に当てはめようとすると、色々とおかしなことが起こる。これは言語に限らず文化や生活様式全般についても言えることであろう。

 

日本にいると英語だけが国際語だと思っている人が多いが、フランス語は今日なお国際社会において重要な言語である。国連の幹部職員になるにはフランス語は必須であるし、フランス語で書かれた国際条約の条文も少なくない。外国で車を運転するために国際免許証を取ると中身はフランス語が最初に来るし、国際郵便の表記も国名や航空便・船便の区別など、フランス語で書くのが正式である(勿論英語でも良いが)。

 

しかしながら、日本のワイン関係者の「フランス語を勉強しようとしない率」が異常に高くて、ワインの説明などを見ていると呆れ果てることが少なくない。

 

で、何が言いたいかというと、古い Beaujolais Villages があるから、いつ開けようかなと…

 

保険会社か何かが毎年発表している、子供が将来なりたい職業のランキングで、男の子がなりたいものの第一位が「学者・博士」となったそうである。私はこれを見て違和感と、ある種の不快感のようなものを覚えた。

 

このアンケートは選択肢を提示して選ばせたのか、それとも自由記入で行われたのかは分からないが、少なくとも回答した子供の多くと集計して発表した主催者の双方が、学者も博士も同じようなものだと考えていたのであろう。

 

そもそも学者とは何か。ある意味曖昧な言葉かもしれないが、ここでは恐らく研究者と同義語であろう。世界的な大発見をして、ノーベル賞を取るような学者になりたい…というのであろうか、まあ、それなら話は分かる。

 

では博士とは何か。「白衣を着て何か難しいことを研究している学者…」というほどのイメージなのかもしれないが、このイメージは漫画の影響が少なくないと思われる。実際には、博士とは学位の最高位である。大学院で所定の単位を取得し、最終試験と論文の審査に合格したら与えられるものである。博士論文が合格するためには、それまでに本人の書いた論文が3報くらいは学会の審査を受けて専門の雑誌に掲載されている必要がある(一部の私立大学はもっと簡単に認定しているらしいが、そんなもんわしゃ知らん)。あるいは大学院に在籍していなくても、何らかの立場で研究を続け、同様に論文審査と最終試験に合格すれば取得することができる。いずれにせよ、既に研究者として一人前の経験と能力を持っていることを公式に認定されたようなものだと思えばよかろう。

 

大学院で学費を払って勉強し研究をしていれば、余程要領が悪いか運が悪い人でない限りは、博士号を取得することはそれほど困難なことではない(以前の文学系を除く)。しかし、職業としての学者になるのは容易ではない。研究者として給料を貰うためには、それなりのポストが得られなければならないが、それがなかなか空いてないのである。国立大学の教官になれれば(ある程度の雑用はあるものの)主な仕事は研究であるが、これになるには実力に加えて運も必要となる。より研究環境の劣る公立大学や私立大学でも、やはりそう簡単に雇って貰えるものではない。国の研究所なら国家公務員試験を受ければいいので比較的簡単になれるし、一生クビになる心配もないが、それだけに学者と呼べるレベルの人は少ないのかも知れない。それから、たまに霞が関勤務に飛ばされる(?)こともある。民間企業の研究所でもいいのだが、必ずしも自分のやりたい研究ができるものでもないし、そもそも、博士号を持ってる人は煙たがられて雇ってもらえないことが多いのである。

 

ところで1993年の初めに、テレビで「高校教師」というドラマが放送されていた。最後の衝撃的な結末がよく語られるが、私はむしろ最初の設定に注目した。主人公は女子高の教師と生徒であるが、この教師はなりたくて高校教師になったのではない。大学の研究室で助手(今でいうところの助教)をしていたが、教授に騙されて追い出され、高校教師になったのである。更には婚約者である教授の娘にも騙されていたことが分かり、すっかり自棄になっていることが伏線となっている。この人も当然博士号は持っている筈である。そして大学で若手の研究者として頑張るつもりだったのが、研究室を追い出された結果、もはや研究者ではなくなってしまったのである。

 

放送当時、私はこのドラマを観ていなかったのだが、それでよかった。もし観ていたら、その年の夏の終わりに、私は行きずりの女子高生を誘拐して無理心中していたかも知れない。

 

ちょうどこのドラマの放送が終わった頃、私は地方のある国立大学の講師(当時のランク付けでは助手よりも上で、助教授=現在の准教授の下に位置する)にならないかと誘われた。誘ってくれたのは大学の先輩の助教授で、そこの教授が定年退官した直後であった。数年後には彼が教授に上がり、それから私が助教授に上がる算段である。

 

話は順調に進み、研究室を訪問して学生たちにも新しい先生だと紹介され、秋に着任することに決まった。ところが、私を引っ張ってくれた先輩はまだ助教授で、色々な面で力が足りなかった。どっかの旧帝大出身の古狸教授らの企みから教授会で学閥争いの内紛が起こり、直前になって私の内定が取り消されたのである。後日知り合いから、あそこまで決まっていて潰された奴は初めてだと妙に感心されたものである。

 

その時を境に、私は学者やら研究者やらの世界からは永遠に訣別することとなった。しかし今もなお、私は博士なのである。

 

私は高校教師の経験はないが、女子生徒を家庭教師として教えることがある。最も長い期間にわたり、最も密度濃く教えた生徒…そう、ボヤキまくってホ〇ンを吹いていた彼女が今、私の大学で大学院生となっている。彼女が将来研究者となるのか否かは、まだ誰にも分からない。

 

英語は言うまでもなく印欧語族に属する屈折語であるが、活用形の多くを失ってしまった結果、孤立語に近いものになってしまっている。日本の学校教育においては、殆どの場合にこの英語を最初に学習するため、大学に入って別のヨーロッパ語を学ぶと違和感を感じる学生が少なくない。しかし、ぐちゃぐちゃに壊れたものに慣れているために、本来の形が整っているものをおかしく感じるのは可哀想な話である。

 

さて、ここでは時節柄D.H.ローレンスの『死んだ男』を見ながら、英語本来の文法について考えてみたい。

 

 

1.現在完了形

 

学校では現在完了形はhave(三人称単数の場合はhas)+過去分詞だと習う。上の画像のほぼ中央には、確かに He has risen. という形がある。ところで、その2行下にある he is risen, は何であろうか?

 

学校で習った文法だけで考えると、これは受動態になる。動詞riseは通常は自動詞として用いられるが、他動詞として用いられることもあるから、「彼は昇天させられた」と解釈することが出来よう。

 

しかし、これは現在完了形だと考えるほうが良さそうである。ドイツ語を習い始めの時に、Er hat gegangen. と書いて Er ist gegangen. と直された方もいらっしゃるであろう。あるいは、フランス語やイタリア語の完了過去形や近過去形で、自動詞にavoirやavereを付けて直された方もいらっしゃることと思う。

 

英語だけが違っているほうが不自然である。このような自動詞の完了形にはbe動詞を用いるのが本来の形なのである。


2.疑問文と否定文。

 

英語の初学者が混乱することの一つが、疑問文と否定文の作り方が一定していないことであろう。次の文例を見ていただこう。

 

He is a student.
He isn't a student.
Is he a student?

 

He has a pen.
He doesn't have a pen.
Does he have a pen?

 

He has been there.
He hasn't been there.
Has he been there?

 

大抵の学校で最初に習うbe動詞の場合、否定文は動詞の後にnotを付け、疑問文は主語と動詞を入れ替えればよい。ところがそれ以外の動詞は否定文の場合にはdon't(三人称単数の場合はdoesn't)を動詞の前に入れるし、疑問文の場合は主語の前にdo(三人称単数の場合はdoes)を入れることになる。ところが、同じhaveなのに現在完了形の時はbe動詞と同じ規則になる。さらに混乱させるなら、canやmustなどの助動詞はbe動詞と同様だが、have toは一般動詞として扱い、had betterは…。

 

ドイツ語ではこんなことはない。否定文は全てnichtを付けるだけでよいし、疑問文は動詞を主語の前に持って来るだけである。Seinであろうが自動詞であろうが他動詞であろうが助動詞であろうが同じである。フランス語も本来は同じであるが、今日の日常会話では位置を変えずに語尾を上げるだけで疑問文にすることが普通である。イタリア語はラテン語同様に主語を言わないことが多いので、ひっくり返しようがないのだが、ラテン語にあった疑問の接尾語は消滅してしまった(他のラテン系言語では残っているものもあるが)。

 

さて、先ほどの文章の3行目に Why ask you of him? という文がある。これは通常の形にすれば Why do you ask of him? である。また、下から2行目には We know not, とあるが、これは We don't know, のことである。しかし、ここまで来ると、むしろこれらのdoやdon'tが不自然に見えて来るではないか。(笑)

 

本来、英語も否定文はnotを付けるだけ、疑問文は主語と動詞をひっくり返すだけであった。このdoは、実は動詞を強調して言う表現から来ているのであろう。

 

Have you a pen?
(ペンを持ってる?)
Yes, I have a pen.
(うん、僕はペンを持ってる。)
Do you have a pen?
(ペンを確かに持ってるのかい??)
Yes, I do have a pen!
(ああ、僕は確かにペンを持っているんだ!)

 

平叙文でも強調したいときには動詞の前にdoを入れることがある。三単現ならdoes、過去形ならdidを入れる。その形がそのまま否定文や疑問文になったものが、現代英語の否定文や疑問文なのである。

 

 

先ほどの文章の少し先を見てみよう。真ん中より少し後のところ、Know ye me not?とある。ここでyouは本来複数形だけに用いられ、主格はyeという形であったことさえ知っていれば、この文が「君たちは私を知らないのか?」という意味だと分かり、Don't you know me?と現代語訳?出来るであろう。

オーケストラの多彩な音を聴いていると、ピアノだけで演奏した音が物足りなくなるということはご理解いただけるだろう。最初からピアノ曲として、あるいはピアノ伴奏による曲として作曲されたものであればまだ好いが、オペラのアリアなどをピアノ伴奏で演奏されると残念に感じることは少なくない。しかしながら、歌手のリサイタルに一々オーケストラを用意することは現実的ではない。ヴェルディやプッチーニをやろうとしたら50人では足りないし、モーツァルトを歌うにも最低十数人はいないと形にならない。楽譜通りに演奏することは諦めて、弦楽四重奏と管楽器数名で演奏するように編曲するのも一つの案であろうが、あまり聞いたことがない。

 

ところで通常のアリアはオーケストラ全体で普通に伴奏されているが、中には特定の楽器がソロで歌と絡み合う曲がある。そこで、伴奏の基本はピアノで妥協するとして、そこに特徴的な楽器を加えることを考えてみた。取り敢えずドン・ジョヴァンニから2曲。

 

まずは第一幕の後半の12番ツェルリーナのアリア Batti, batti, o bel Masettoである。独奏チェロが入ることで一気に雰囲気がオケ伴に近づいた。尚、アップライトピアノでは演奏できないようになっているところがあるのでご注意を。(笑)

 

http://www.kit.hi-ho.ne.jp/bknk/battivc.pdf

 

そして第二幕のクライマックス、ウィーン版で追加された21番b Mi tradì quell'alma ingrata である。晩年のモーツァルトはクラリネット属の楽器を特別な意図をもって象徴的に使っているが、ドンジョヴァンニにおいては特に女性の純粋な愛の表現として使っている。そしてその究極がこのアリアである。

 

http://www.kit.hi-ho.ne.jp/bknk/21bCl.pdf

 

 

なお、ここでご紹介した編曲については私が原曲のスコアを元に勝手に作ったものであるが、編曲に関わる著作権(ってあるのか?)は気にせずに、自由にこの楽譜を印刷して演奏していただいても、あるいは更に手を加えて使っていただいても結構である。何とかラックとかいう団体にお金を払う必要はない。(笑)