「未来の物語」とサブタイトルにありますが、3年後の日本である可能性は否定できません。はなはだ不愉快な想像ではありますが、その可能性はゼロではありません。

2015年のノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチ著「チェルノブイリの祈り 未来の物語」岩波現代文庫。
解説が後に性暴力スキャンダルが発覚したあの広河隆一というのが大変な皮肉です。


チェルノブイリ原発事故に遭遇した人々の衝撃と悲しみを丁寧なインタビューで記録していくドキュメンタリー作品。

インタビューの対象は作業員であり、英雄的な消防士であり、農夫であったり、たまたまそこに逃れてきていた難民であったりもします。
逆に事故がどのようで、どのような対策がなされたか……などということは書かれません。
書かれているのは人々のささやかな営み。その意味で👇で紹介した本とは対極です。

似たようなスタンスの本をあえてあげれば村上春樹さんのアンダーグラウンドでしょうか。
ただ似てはいてもオウムとチェルノブイリではやはり衝撃の大きさが違います。
本書は事故後10年経ってのインタビューです。既に原因不明の死や病気、あるいは体制の崩壊が人々の生活を容赦なく分断しています。
その中で人は生き、愛し、あるいは忘れ、祈ります。その語りはもしかして涙なしでは読むことができないかもしれません。
特に第1章に出てくる消防士の妻 リュドミラーの夫婦の物語には言葉にならない衝撃と感動を覚えます。

たまたまそこに逃れてきた難民がいると先ほど紹介しましたが、チェルノブイリ周辺は第二次世界対戦でドイツ軍と激戦を交えた地域でもあります。
戦争の記憶もまだ生々しく、それが一筋縄では捕らえられないしたたかな陰影を物語に与えます。


チェルノブイリ事故後の隠蔽工作や権力におもねる一部技術者の姿は、日本が福島第一原発事故で見たものとはなはだよく似ています。
一方でかろうじて存在した日本の “報道の自由” が、ギリギリ紙一重で日本の悲劇を防ぎ得たと言えないこともありません。
報道の自由がない旧ソ連で人々が無知なまま状況にさらされる姿は、やはり以前に紹介した 「谷中村滅亡史」 に似た印象を受けました。

解説の広河隆一はアレクシエービッチと同じく、リュドミラーにインタビューしたことがあったと言います。しかし彼女のように話を聞き出すことはできなかったとも。
同じ悲劇を見聞したとしても作者アレクシエービッチのように「愛」をそこから見出すことができなかったのかもしれません。
後に広河隆一から発覚した性暴力スキャンダルを思い起こせば、彼はチェルノブイリに限らず見聞した悲劇から、むしろ物語にデカダンな態度で向き合うことを学んだということになりますでしょうか。
それはどこか、現代の日本に重なります。

ここであえて広河自身の言葉を借りれば「私たちはいつか、フクシマでリュドミラーとアレクシエービッチを生み出すだろうか」ということになるのかもしれません。