自己犠牲は美しいもの、、と思う人は多いでしょう。

ある時道端で声をかけられました。

「与えて、与えて、与え尽くす、って、素晴らしいと思いませんか?」

私は宗教団体の勧誘の人からよく声をかけられます。

「ああ、あの宗教だな」以前通っていたこともあるので雰囲気で分かります。

 

「ああ、いいえ、素晴らしいかもしれませんが、それで成長しない場合もあります」

そう思いましたが、言いませんでした。

・・・ほんとうに悟っていない場合、それをやると苦しみの原因になるから

 

私もこれを試したことがあります。

付き合っていた人に対して、

愛とはそういうものだと信じていた時期がありました。

若かったから、美しい愛だと思っていたんですね。

結局私は苦しくなり、出家して消えることになりました。(オウム真理教に)

そして、がむしゃらに修行しました。

交感神経のガソリンをふかしっぱなしにして突っ込んでいました。

その頃は限界で奉仕活動(ワーク)をすれば解脱すると言われていたので、

狂ったようにほとんど寝ずにワークと修行をしていました。

考えるとこれが今も残って自律神経がおかしくなっていると思いますが、、。

 

話は逸れましたが、以下は私の体験からの考察です。

悟っていない状態での自己犠牲は中道ではないし、自我を強めてしまいます。

私は、「他に尽くして、自分が弱って死んで行く」ということに美を見出していました。

「しあわせな王子」という童話であったり、

いろんなマンガでもそういうものがあり、感動していました。

 

自己存在価値が自己犠牲にあると思いたい心理は、リア充ではないからではないかと思います。

存在価値を認められないから、尽くしていることで自己満足したいという気持ち。

これは相当苦しみの多い世界です。病んでいるとも言えます。

 

「ほんとうの」自己犠牲が使命である、幸せであるという菩薩もいるかもしれません。

でもそんな人は、ごくわずかです。

 

だから、未熟なうちは、

あまり「尽くすべきだ」「与えるべきなんだ」の世界にハマらない方がいいと思うのです。

そうでないと、浄化されていないのに「良い人」を演じる姿勢を崩すことが難しくなるから。

自我が固くなって仮面が何重にも重なり取れにくくなる、何度も屈折している、そんな感じです。

まずは仮面や屈折を取ったり心のコントロールが先なので、

限界を超えるまで尽くしてしまうのは結果的に体調を崩し周りにも迷惑がかかります。

 

まず自分を助けること。

まず自分がどんな環境、どんな刺激があっても幸せでいられるようになること。

それをやらないと、頑張っても、背負っても、どこかに不満が残るから、

それは毒になって身体は病気になる。

周りに良い波動を伝播することもできなくなっている。

その中で嫌われ、いじめられ、自分は苦しみ、

他は幸福になるなら良いというその美学で死んで行く自分を心から喜んでいるでしょうか?

ほんとうに幸せだと思うことができているでしょうか?

そこまで悟っているのでしょうか?

 

人に見せるための、評価される目的での善行は、やめたほうがいい。

いや、自分に見せるための、自分に納得させるための善行でさえ、やめた方がいい。

「私は善人ですよ、私は善行をやっていますよ」というのは、やめた方がいい。

自分の内側を向いて、自分のための善行を常に考えた方がいい。

その方がむしろ、集合無意識を高め、他のためにもなるから。

そういった、自と他が同じという認識なら良いのだけれども。。

 

とにかく、今自分がおこなおうとしているのは外側(自我さんであっても)を向いた行動なのか、

それとも内側を向いた行動なのか、よく内観した方がいい、

 

というよりも、同じ行動をするにも、意識が一元なのか、二元なのか、

それをよく瞑想することが必要、、

そう思います。

 

■さらに考察

「幸福な王子」の物語の中には、王子とツバメの自己犠牲の精神を街の人々が理解してくれなかった悲しみと、

死んで街の人々から葬り去られたのちに神さまから天上の幸福を与えられたという祝福の喜びがあります。

これには広範的に解釈すると殉教に似た精神があり、カルト宗教に利用される可能性もありますね。

病んで屈折した状態である場合、「尽くす善」で自己肯定できると感じるものなのです。

カルト宗教は、そういった病んだ人々を嗅ぎつけて、支配しようとします。

 

教祖や神様のために自分を犠牲にして戦ったり命を捧げて奉仕をして、死んでから来世幸福になるという思想・・人間の善でありたいと願う気持ちには、そういう輪廻に閉じ込められる苦しみがあると思います。

なぜ善がいけないのか・・・いけないのではなく、二元から脱却できないので苦しみを生むのです。

善があれば必ずその対極に悪があります。この物語の場合は、街の人々が崇高な王子の精神を理解できず悲しみや怒りを誘う存在になっています。「ひどい、、悲しい」でも、仕方がない、それが人間です。

自分が善の側であるという認識を超越すれば、楽しく尽くし、悲しみはなく明るく生きているでしょう。

善でありたいと思うのは、誰かの概念に合わせて評価を求めていて自分の軸がないとも言えるかもしれません。

 

尽くしても尽くしても報われない、誰もわかってくれない、そういった人間の苦しみ。。

そういう感情が地球に蓄積して行くと、どこかで争いが起こり始めます。

やはり二元性を超越し、許す心がなければ、地球上から戦争をなくすことはできないと感じます。

作者も、そのどうしようもない苦しみを感じてこの物語を書いたのではないか、そう思います。

 

 

★参考★

「幸福な王子」オスカー・ワイルド

オスカーワイルド『幸福な王子』あらすじ解説|王子とツバメの自己犠牲の童話 - 散文のわだち (ks-novel.com)

 

ある街に「幸福な王子」の像が建っていた。両目にサファイア、腰の剣にルビー、体は純白に包まれ、心臓は鉛で作られている。美しい王子の像は街の人々の自慢だったが、実は魂の宿った王子の像は嘆き悲しんでいた。生前宮殿にいた頃には気づかなかった、貧しい人々の存在が彼の目に映り込んでいたのだ。

一匹のツバメがエジプトへ向かう道中に王子の像の足元で休憩する。すると王子は涙を流して、自分に装飾された宝石を貧しい人々に届けて欲しいとツバメに頼む。ツバメは早くエジプトへ渡りたかったが、言われた通り宝石を貧しい人々に届けにいく。この自己犠牲の精神によって二人は強く結ばれていく。

体の金箔を全て与えた王子は見窄らしい姿になる。ツバメも衰え既にエジプトへ行く気力が無くなっていた。そして自らの死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って王子にキスをして力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立てて割れた。

美しくなくなった王子の像は街の人々によって処分されることになった。しかし鉛の心臓だけは溶鉱炉でも溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。

その様子を見ていた神様は、「この街で最も尊いものを二つ持ってきなさい」と天使に命じる。天使はゴミ溜めから鉛の心臓とツバメの死骸を持ってくる。神様は天使を褒め、王子とツバメに天上の幸福を与えた。