スターシードとは、、という記事や動画を見ると、やっぱり私ってスターシードなんだなーと思います。ダメダメなスターシードですが。。

 

よく「スターシードは選ばれた魂」っていう表現がありますが、これは別に優れているとか偉いという意味ではないんですよね。生まれて来る前に地球行きを志願し、その試験に合格したという話もありますが、まあ適材適所っていうか、今の地球のためになんか役に立てるだろうということで生まれて来たというくらいの意味だと思います。

 

何となく覚えている感覚は、宇宙から地球を見ていて、「あーまた戦争してる、戦って人が死んでる、やめて、もうやめてー!みんな思い出して!ほんとうの自分を、ほんとうの愛を、ほんとうの地球の姿を!ちょっと、私それを伝えたいのよ!」

ていう感じでした。居ても立ってもいられなくて、地球を何とかしようとやる気だけはあったけど、いざ地球に来てみると何もできなくて、無力感、、それどころか何か虚弱体質でダメダメな私。

 

授業の内容は面白かったから勉強はできるのだけど、体育は1か2、ボール運動ではキャーキャー逃げてばかり、水泳ではお腹が痛くなる、何か要領が悪く、言われたことしかできず、緊張してテンパってコンプレックスと自己嫌悪、恥ずかしさでいっぱいになっていました。

でも友だちがケンカしていると必ず仲裁に入ったり、私自身は何をされても怒らなかったり(友達は私を何とかして怒らせようといろいろ引っかけて来ましたが)、何か人と違った所はあったと思います。

 

学校を出てからはいろんな宗教に入って、しまいにはオウム真理教にハマって「地球の救済だー!」と突っ込んでいるうちに事件が起こり、「は?これで地球が救われるの??いや、救われると思わなきゃいけないんだよねえ、だよねえ?、ほんとかー?うそー、ちょっとそれは苦しい、何が正しいのかわからなくなった、、」と、わけが分からなくなり、、。

 

オウムを脱会してから何をよりどころにしたら良いかわからなくて、

苦手な仕事に挑戦してそれを修行と考えるもさっぱりわからず混乱し、

被害者賠償をしようと頑張っても収入を得ることができず落ち込み、

仕事の能力がないから自己存在価値がゼロからマイナスになり、

何の役にも立たない自分の中に善を見出せなくなって行き、

償いもできないのかと自責の念で重度のうつ病になり、寝たきりに。。

 

そのうちに罪悪感にとらわれ負のスパイラルにはまり込みました。

生きてることが罪なんじゃないかという妄想、、、

これはなかなか抜け出せません。

しかも、この波動を出していると周りからも責められます。

ご存じの方もいると思いますが、罪悪感はもっとも波動が低い状態です。

(世の中にはここで自死してしまう人も多いかと思います。)

 

波動が低いので苦しみを引き寄せ、

交感神経優位で疲れに疲れ、緊張しっぱなし、

しかも頑張ってしまい周りには病気であるとは理解されないので、

療養の環境を作ることは難しく、、

まだまだうつ病について病状も治療法もよくわからない部分も多くて、

脳のシナプスが壊死するという話もありますが、

思考が極端、狂気的になり、明らかに異常な思考にとらわれました。

 

「被害者賠償のために稼げないならば4ぬべき」

「私はオウムに入っていたんだからひとを56したと同じだ!だから死刑である」

「被害者と同じ苦しみを味わうべき。そうして4ぬんだ!」

「苦しみがどんどん私に来て 病気になって4ねばいい」

「すべての苦しみを背負って私は4ぬんだー!4ぬまで眠らないで働けー!」

「こんな悪い自分なんか4んじゃえー!」

「そして、みんな私が4ねばいいと思っているんだろー!」

というような思考になり、

どうしても善人でいたいから、善人と言われたいから、

善人ではない自分を抹殺したくなりました。

何とか生きて行くために、

「自己犠牲と言う美学を使った自己存在価値」にしがみつこうとしました。

なかなか抜け出すのが難しいトリックです。

 

医者からは休めと言われましたが、

(身体も辛いので休みたいのはやまやまだけど、)

自我を崩壊させたいという思いと狂気のはざまで、

オウムの修行「限界までやる、極限までやる」というのが染みついていたため、

「負けちゃダメだ!ここで負けてどうする」

「自分を追い込んで追い込んで行くことが修行だ」

という思考から抜け出せず、休むことができず、

「立て!立つんだジョー!」とばかりにゆらゆらと立ち上がり、

(立ち上がり焦っているだけで、頭は働かないので何もできない)

「えっと、えっとー何だったっけ?うぎゃー!!」

と、立ち尽くして取り乱す。

すぐに頭が膨張しているような、充血しているような感じになる。

 

ぜんぜん使いものにならない。
 

しかも「周りの人が私を休ませてくれない」という被害妄想にも陥り、

実際に休ませてもらえない状況が生じ、

言い争いになる中でストレスが頂点に達して

もうどうしても気が狂うという時、

「暴れる!破壊する!」という激しい暴力的衝動とともに、

無差別にひとを56したい衝動にかられ(実際はずっと座っていましたが)、

「あーこうして人は犯罪に走るんだろうな」と思いました。

 

頭は熱っぽく膨張し、

イメージは渋谷のスクランブル交差点の人混み。

その衝動は頭の充血感が収まるとともに1時間くらいで消えて行きましたが、

その翌日がコロナで初めての緊急事態宣言が出た日でした。

スクランブル交差点にはほとんど人がいなかったと思います。

なんだか神が笑わせてくれたのかなと思いました。

犯罪心理学を教えてくれたのかなと。

 

私は狂気によって極悪になってしまう心理を抱えている。

誰も評価しない、誰もが見たくない、忌み嫌う心理状態。

しかし誰の心の中にもある闇であり、病気である。。

それは悲しい人の業でつくられていました。

 

まあ、もともと潜在的には「この世の苦しみを教えてください」、と

願っていたのもあり(軽はずみにこんな願掛けをしない方がいいです)、

ああ、ここまで知れて良かったなと、

どこかでもう一人の自分が「これでよし」と喜んでいるのがわかっていました。

悲しい人の病気は癒されなくてはなりません。。

外界の価値観に合わせ、自分を生きられないがゆえに病気が巣くう。。

 

もう這い上がれないという絶望(誰にも認められない、自分でも認められないという)をやっと経験することができ、

体力も思考力もなく自己表現もままならない。。

その中で自己存在価値の希求と称賛欲求は鎮火されました。

「やっとエゴが死んでくれたか」と。

エゴは降参しました。エゴに自己存在価値なんかなくて良いのです。

そしてわかったことがあります。

オウムを脱会してから本来の仏教を学んでいた成果もあったと思います。

 

それは「何者かに支配されずに自分を生きることでしか自分の役割は果たせない、天命を思い出せない」、ということです。

ほんとうの「自分軸」というものかもしれません。

世の中やコミュニティーで「こうあるべき」というものは、

絶対にそれに合わせなくてはならないものではありません。

ぜんぜん、認められなくても良いのです。

もちろん、地球の集合無意識を感じて他に苦しみを与えないのは基本ですが、

(ここが、少し霊的感覚というか感性を磨く必要があるかもしれませんが)

その中で「自分を生きること」が宇宙の意思です。

 

そう、地球に来てやることがあったはずなのです。

もちろん、生まれる前のことや宇宙の仕組みを思い出して悟るということもあるでしょうが、自分のやるべき仕事があるはずなんです。

それは、人から言われてやることではないんです。

誰からも褒められなくてもいい。

自我のためではなく、気付いた真我の役割とでも言いましょうか、、

 

そして、それがこれからの時代の生き方です。

これから地球は変わります。

支配されたいという欲求や依存のない生き方。

支配されたいと思うから支配される状況が起こります。

支配と被支配という二元を超える時が来ました。

そこにはカルトなるものは存在できません。

自分の翼で飛んで、ほんとうの自分の場所へ行くのです。

他人の翼ではそこへは行けません。

ほんとうの自分と繋がって、ほんとうの自分を生きるのです。

体現するともいえるかもしれません。

それが地球のためでもあり、宇宙のひとつの意思だと思うのです。

うまく言えませんが、

伝わる人には伝わると思います。

 

今もまだ脳の後遺症はあります。

無謀な自己崩壊の道をたどってしまい、

まだシナプスが繋がっていないのか、

記憶が飛んだり集中力が落ちている。

でもこれはじきに回復すると思っています。

 

(今回は内容が深くなったので考察が深まったらまた更新するかもしれません)

 

 

 

 

 

昨日、自己犠牲についての考察を記事にしたのですが、何だかうまく表現できなくてモヤモヤしていました。

ですが、さっき何気なくYouTubeでポチった動画が、私が感じていた全体的な雰囲気や言語化しきれなかった所をよりわかりやすく説明してくれていて驚きました。

「そうそう、そうなんだよ」

自分が泳げないのに、溺れている人を助けられはしない。

人は承認欲求のために動いてしまうことが多いけれど、それは「今ここ」を生きていない・・。

私は宇宙に認められて(繋がって)いるのだから、この三次元世界の人から別に認められなくてもいい。。

 

 

私は大体こういうサムネイルだとあまり観ないのですが、「改心」というキーワードでポチったんですね。初めて観たチャンネルでしたが、なかなか面白かったです。

このトシさんという方が、インタビュアーに対してとても興味深いことを話してくれます。

また、有名なシャーマンである神人さんの話が出て来たのも意外でした。

YouTubeを観るうち私の中で繋がって来たのは、ミュージシャンでありシャーマン、エクソシストである神人さん、同じくミュージシャンでありスピリチュアルにも詳しいさとうみつろうさん、そして過去に(病院で)お世話になったことのある内海聡先生、それから憑依を取り除いてもらったことがあるセレン愛さん、そのような方々が徐々に繋がって来ています。

意外だったのが、内海先生が、仏典や哲学がが好きだと選挙演説で語っていたことです。以前内海先生の病院に行ってお会いした時、真実を求める人だなあとは感じましたが、都知事選に立候補するとは驚きでした。

 

とにかくこれからは、日本や地球の未来に対して、そして真実に対して、何か霊的に感じ取っている人がどんどん繋がって行くのだと思います。

これからどのような繋がりが出て来るのか楽しみです。

 

 

自己犠牲は美しいもの、、と思う人は多いでしょう。

ある時道端で声をかけられました。

「与えて、与えて、与え尽くす、って、素晴らしいと思いませんか?」

私は宗教団体の勧誘の人からよく声をかけられます。

「ああ、あの宗教だな」以前通っていたこともあるので雰囲気で分かります。

 

「ああ、いいえ、素晴らしいかもしれませんが、それで成長しない場合もあります」

そう思いましたが、言いませんでした。

・・・ほんとうに悟っていない場合、それをやると苦しみの原因になるから

 

私もこれを試したことがあります。

付き合っていた人に対して、

愛とはそういうものだと信じていた時期がありました。

若かったから、美しい愛だと思っていたんですね。

結局私は苦しくなり、出家して消えることになりました。(オウム真理教に)

そして、がむしゃらに修行しました。

交感神経のガソリンをふかしっぱなしにして突っ込んでいました。

その頃は限界で奉仕活動(ワーク)をすれば解脱すると言われていたので、

狂ったようにほとんど寝ずにワークと修行をしていました。

考えるとこれが今も残って自律神経がおかしくなっていると思いますが、、。

 

話は逸れましたが、以下は私の体験からの考察です。

悟っていない状態での自己犠牲は中道ではないし、自我を強めてしまいます。

私は、「他に尽くして、自分が弱って死んで行く」ということに美を見出していました。

「しあわせな王子」という童話であったり、

いろんなマンガでもそういうものがあり、感動していました。

 

自己存在価値が自己犠牲にあると思いたい心理は、リア充ではないからではないかと思います。

存在価値を認められないから、尽くしていることで自己満足したいという気持ち。

これは相当苦しみの多い世界です。病んでいるとも言えます。

 

「ほんとうの」自己犠牲が使命である、幸せであるという菩薩もいるかもしれません。

でもそんな人は、ごくわずかです。

 

だから、未熟なうちは、

あまり「尽くすべきだ」「与えるべきなんだ」の世界にハマらない方がいいと思うのです。

そうでないと、浄化されていないのに「良い人」を演じる姿勢を崩すことが難しくなるから。

自我が固くなって仮面が何重にも重なり取れにくくなる、何度も屈折している、そんな感じです。

まずは仮面や屈折を取ったり心のコントロールが先なので、

限界を超えるまで尽くしてしまうのは結果的に体調を崩し周りにも迷惑がかかります。

 

まず自分を助けること。

まず自分がどんな環境、どんな刺激があっても幸せでいられるようになること。

それをやらないと、頑張っても、背負っても、どこかに不満が残るから、

それは毒になって身体は病気になる。

周りに良い波動を伝播することもできなくなっている。

その中で嫌われ、いじめられ、自分は苦しみ、

他は幸福になるなら良いというその美学で死んで行く自分を心から喜んでいるでしょうか?

ほんとうに幸せだと思うことができているでしょうか?

そこまで悟っているのでしょうか?

 

人に見せるための、評価される目的での善行は、やめたほうがいい。

いや、自分に見せるための、自分に納得させるための善行でさえ、やめた方がいい。

「私は善人ですよ、私は善行をやっていますよ」というのは、やめた方がいい。

自分の内側を向いて、自分のための善行を常に考えた方がいい。

その方がむしろ、集合無意識を高め、他のためにもなるから。

そういった、自と他が同じという認識なら良いのだけれども。。

 

とにかく、今自分がおこなおうとしているのは外側(自我さんであっても)を向いた行動なのか、

それとも内側を向いた行動なのか、よく内観した方がいい、

 

というよりも、同じ行動をするにも、意識が一元なのか、二元なのか、

それをよく瞑想することが必要、、

そう思います。

 

■さらに考察

「幸福な王子」の物語の中には、王子とツバメの自己犠牲の精神を街の人々が理解してくれなかった悲しみと、

死んで街の人々から葬り去られたのちに神さまから天上の幸福を与えられたという祝福の喜びがあります。

これには広範的に解釈すると殉教に似た精神があり、カルト宗教に利用される可能性もありますね。

病んで屈折した状態である場合、「尽くす善」で自己肯定できると感じるものなのです。

カルト宗教は、そういった病んだ人々を嗅ぎつけて、支配しようとします。

 

教祖や神様のために自分を犠牲にして戦ったり命を捧げて奉仕をして、死んでから来世幸福になるという思想・・人間の善でありたいと願う気持ちには、そういう輪廻に閉じ込められる苦しみがあると思います。

なぜ善がいけないのか・・・いけないのではなく、二元から脱却できないので苦しみを生むのです。

善があれば必ずその対極に悪があります。この物語の場合は、街の人々が崇高な王子の精神を理解できず悲しみや怒りを誘う存在になっています。「ひどい、、悲しい」でも、仕方がない、それが人間です。

自分が善の側であるという認識を超越すれば、楽しく尽くし、悲しみはなく明るく生きているでしょう。

善でありたいと思うのは、誰かの概念に合わせて評価を求めていて自分の軸がないとも言えるかもしれません。

 

尽くしても尽くしても報われない、誰もわかってくれない、そういった人間の苦しみ。。

そういう感情が地球に蓄積して行くと、どこかで争いが起こり始めます。

やはり二元性を超越し、許す心がなければ、地球上から戦争をなくすことはできないと感じます。

作者も、そのどうしようもない苦しみを感じてこの物語を書いたのではないか、そう思います。

 

 

★参考★

「幸福な王子」オスカー・ワイルド

オスカーワイルド『幸福な王子』あらすじ解説|王子とツバメの自己犠牲の童話 - 散文のわだち (ks-novel.com)

 

ある街に「幸福な王子」の像が建っていた。両目にサファイア、腰の剣にルビー、体は純白に包まれ、心臓は鉛で作られている。美しい王子の像は街の人々の自慢だったが、実は魂の宿った王子の像は嘆き悲しんでいた。生前宮殿にいた頃には気づかなかった、貧しい人々の存在が彼の目に映り込んでいたのだ。

一匹のツバメがエジプトへ向かう道中に王子の像の足元で休憩する。すると王子は涙を流して、自分に装飾された宝石を貧しい人々に届けて欲しいとツバメに頼む。ツバメは早くエジプトへ渡りたかったが、言われた通り宝石を貧しい人々に届けにいく。この自己犠牲の精神によって二人は強く結ばれていく。

体の金箔を全て与えた王子は見窄らしい姿になる。ツバメも衰え既にエジプトへ行く気力が無くなっていた。そして自らの死を悟ったツバメは最後の力を振り絞って王子にキスをして力尽きる。その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立てて割れた。

美しくなくなった王子の像は街の人々によって処分されることになった。しかし鉛の心臓だけは溶鉱炉でも溶けず、ツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。

その様子を見ていた神様は、「この街で最も尊いものを二つ持ってきなさい」と天使に命じる。天使はゴミ溜めから鉛の心臓とツバメの死骸を持ってくる。神様は天使を褒め、王子とツバメに天上の幸福を与えた。