関ヶ原決戦まで空白の四十日間のナゾ


 伏見落城後の小早川秀秋の行動を考察しているわけですが、疑問が次々とあらわれてきます。しかし、秀秋の行動に紛れがあるわけではなくて、考証する側に問題点が山積しているというのが実情であることが明らかになってきました。

「松尾山うんぬんを審理するのは、現段階ではまだ時期尚早だな。決戦の場がいかなる経緯で関ヶ原に決したのか、その点を具体的に述べないうちに松尾山を持ち出すから話に脈絡がなくなって、おかしなことになってしまう。決戦の場が決まらないために、いらいら焦らされ通しだったのは本当は秀秋のほうなんだろ」

 秦野裁判長がいきなり入廷してきて、まだ席につかないうちから長井検事に呼びかけました。あいさつの号令をかけそこねて係官が当惑しています。秦野裁判長の本日の審理に臨む意気込みはかなりのようです。

「そういうことです」

 長井検事が起立し礼をして応じました。

「昨日、検察官が読み上げた松本清張の文章は取るに足らぬたわごととして無視してかかるがよいかな」

「結構です」

「巨匠のいうことがすべて正しいわけじゃない。松本清張ほどの小説家でも、関ヶ原と向かい合うと、へべれけになってしまう。史学界の構造的欠陥が凝縮されたのが関ヶ原合戦なのかもしれん。だがね、犯罪捜査の世界はボスと手下の関係で成り立つ史学界とは違うのだよ、明智くん」

 明智小五郎の名が出てきました。実は秦野裁判長が機嫌のよいときに出る十八番のセリフなのです。日本史考証の旧態依然ぶりを嘆くというより、百歩も、千歩も進んだ犯罪捜査の現状を喜ぶ気持ちのほうが強いのではないでしょうか。

「出ましたね」

 長井検事が笑って応じると、秦野裁判長はさらにつづけました。

「秀秋がアイスピックを振り上げるのはまだ早い。犯行現場となった被害者宅にどうやって入り込み、被害者のいる部屋をなぜ特定できたのか。そんな感じで順を追うことにしよう」

「当然です」

「すると、主導権は三成に移るな。三成の居場所は大垣城と判明している。しかし、結果的に家康は大垣城を忌避した。この認識でよいかな」

「よいと思います。が、大垣城を忌避した理由の説明が必要かと……」

「伊勢路へ向かう宇喜多秀家の同行の誘いを断った秀秋の理由とも関係してくるな。こういうふうに四方八方に推理洞察の網目をめぐらせて考えるのが、犯罪捜査の基本なんだ。だから検察官ならすぐにぴんとくるだろう」

「秀秋が単独で伊勢路を行けたら、家康は大垣城を攻めたということでしょうか」

「同じメシを食うだけあって、さすがにわかりが早いな。いかに秀秋とて秀家の大軍に飲みこまれたら身動きできんわな。東軍の隠れ遊軍として機能するためには、秀家の誘いを断って単独行動を取るほかなかった」

「事実が積み重なるにつれて、いろんなことが見えてきますね」

「正しき者は常に勝つ、などという考え方では何も見えてこない。いきおいデッチ上げに走らざるを得なくなるわけだ。正しい答えを得るにはきちんと手順を踏んで、時間をかけるこっちゃ。がっつく乞食は貰いが少ない」

「乞食は差別用語として禁止されていますから、金持ち喧嘩せずでいかがでしょうか」

「へえ、そうなのかよ。わしはどっちでもよいが、お手盛り解釈と御都合主義はシングルイシューの産物だからな。第24回で『お手盛り解釈、見込み捜査、誘導尋問、この三つには酷似した類似点がある』といったまま、説明をし忘れたが、要するに人間の解釈は内面の願望に都合よくねじ曲がるクセがあるから、シロクロ判別しがたいときは『どちらともいえない』というあいまいな中間回答ですませるのが無難なんだ。もちろん、いつまでもそれでよいわけがないから、疑問となって脳裏にこびりつく。そして、正しい情報がインプットされたとき、『ああ、そうか』と気づく。あせって答えを出す必要はない。考えが曖昧なときは曖昧・手探りで時間をかけて答えを探すにかぎる」

「でも、ヒントは必要です。何かありますか」

「あるともさ」

 秦野裁判長が全員に見えるように用意してきた紙を広げました。八月十四日に福島正則の持ち城の清洲城に東軍の先鋒が集合してから小早川秀秋が松尾山を占拠した九月十四日までの一ヵ月一日の日割りの年表なのですが、東西両軍の動きらしい動きは八月二十三日の池田輝政、福島正則による岐阜城攻略のみ。他はまったく空白なのです。

「八月二十三日から九月十五日まで、戦闘といえそうないくさは皆無に近い。こういうふうに時間を等間隔に取ることではじめて空白が明らかになった。東西両軍が接近して対峙しながら二十一日間、まったく戦闘がなかったわけだよ。東軍の場合は家康から自分が行くまでいくさをするなといわれていたからわかる。しかし、大垣城にいた三成まで相手に合わせて暢気に構えるのは解せない。このことも考慮に入れる必要がある」

「裁判長はおわかりと思いますが、陪審員の理解の助けとしていいますと、七万一千という大軍を率いて伊勢方面の東軍勢力を掃討して宇喜多秀家が大垣城に入ったのは八月二十三日のことです。が、三成の計算では七万一千だったのが、実に一万八千に激減しておりました。掃討した伊勢の守りに三万を割いて残してきたわけです。これで三成の目算は大きく狂いました。大坂の毛利輝元に秀頼に出馬を仰いで来会するよう矢のように催促するようになったのは、そのためと思われます。行軍ルートも伊勢から美濃へ出て、大垣城に集結と打ち合わせ済みでした」

「そうなるとだな。困るのは家康だな。東軍の隠れ遊軍とした小早川秀秋八千の使い道がなくなってしまう。大垣城の攻防だと秀秋を投入する場面がなくなってしまうわけだよ。だからといって、いつまでも江戸にいられない。岐阜城を落としたという報告に追いたてられてのことかどうか、九月一日、なぜか家康は急に江戸を出発した。中仙道隊はすでに八月二十五日に出発していた。しかし、なぜ九月一日なんだ、という疑問が生じる」

「こういうことではないでしょうか。まだ、八月上旬の段階で、現状のままではまずいと考えた家康は試みに藤堂高虎らに命じて関ヶ原方面で放火を繰り返させております。その効果あったと見て腰を上げたのではないでしょうか。江戸を発した家康の西上スピードは会津討伐の往路とは段違いでした。しからば、その効果とは何でありましょうか」

 長井検事は水差しからコップに水を移して喉を潤し、そして、つづけました。

「藤堂高虎らが関ヶ原で放火を繰り返したことで、にわかに三成は浮き足立ちました。そのリアクションが八月二十六日から九月上旬まで石田三成が大垣城から行方をくらませた事件なんですね。家康が効果を確かめてから江戸を発ったとすると、八月中に決戦場が関ヶ原と判明したことになります

「関ヶ原なら遊軍の秀秋がものをいう」

「うーん」

 長井検事が急に頭を抱え込みました。

「どうかしたかね」

「どうして、それに気づかなかったのか、われながら自分のアホさかげんが嫌になってしまいます」

「だって、気づかなかったのは、あんただけじゃないだろ」

「そんなの何の慰めにもなりません。裁判長は気づいたわけですから」

「あんただって大津城を『第二次伏見城』と喝破したじゃないか。一人の人間がすべてをカバーするのは不可能なんだ」

「そういうことなんです。この調子だと日本史には続々と新しい解釈が生まれそうです。また、生まれなければおかしいのです。そうした作業が完了するのに何十年かかるでしょうか。日本史の書き換え完了は前途遼遠です。と、なると、一人や二人の努力ぐらいで、どうなるものではありません。趣味の範囲にとどまっていたのでは、足踏みするに等しい……」

「そういうこっちゃ。しかし、やっていくほかない。まあ、焦らんこっちゃよ。ほかにこうとしかやりようがない。そこで、話を元に戻すわけだが、要するにだな、年表ならぬ『日表』上に空白をつくった二十一日間を炙り出して考えると、その二十一日間にはいろんな事実が埋もれてしまっていることがわかるんだな。家康が手詰まりを打開しようとして次の一手を思いつくために苦吟した日数であり、大津城では京極高次が大坂方から何やかやと働きかけを受けていたし、秀秋はまだかまだかと待つだけの辛い日々を送り、三成は大坂の輝元を引きずり出そうとやっきだった。そうした、一つひとつの動きを細大漏らさず白日の下にさらして、埋もれた事実を掘り起こさなければ犯罪捜査のレベルに達しない」

「同感です。どこからいきましょうか」

「三成の動きに危機感を覚えて、まず家康が仕掛けた。そこから始めるのが筋だろうな」

「そうしましょう」

 長井検事は素直に応じて、しみじみと述懐しました。

「しかし、秀秋をフィルターに用いなかったら、これまでのようなことに気づくことができたでしょうか」

「わしも驚いていることなんだな、それは。関ヶ原合戦の解釈が土台から歪んでいることは感じていたが、具体的ではなかった。やはり、適正な手続きを踏んだ効果だろうな」

「ひょっとしたら、それが今回の講座の最大の収穫かもしれません」

「そうかもな。明日は家康と三成のせめぎ合いにメスを入れるぞ。本日はこれにて閉廷」

 明日がというか、明日からが楽しみになりました 

(つづく)




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