東西両軍の決戦場がどういういきさつで関ヶ原に決まったのか、どうして決戦の場が関ヶ原とわかったのか、それを考えるだけでも胸がわくわくしてきます。決戦の場が関ヶ原に決まった瞬間を特定できたら素晴らしい。そのときを待つのは秀秋だけではないのです。
秦野裁判長が開廷宣言をして、長井検事にささやきました。
「昨日もいったことだが、秀秋をキーマンにしなかったら、東西決戦の場が関ヶ原に決まった経緯は見えてこなかったな。それどころか、考えもしなかっただろう。決定権を持つ三成を動かして決戦の場が関ヶ原になるように仕向けたのは家康だからな。秀秋は知るのも早いよ」
「えーっ?」
長井検事が驚いて声を立てました。
「いきなり、ですか。いくら何でも、その説明はまずいのでは?」
「こういう始め方を張り手というんだ。インパクトを与えてから、おもむろに説明を続ける。相手も聞く気になるわな」
「それだったらいいんですが、驚きました」
「二十一日間に及んだ空白の中で目につく動きが藤堂高虎らによる関ヶ原方面の放火事件だな。最初に取り上げるのが、これだ。次につづくのが、大垣城から三成が姿を消した八月二十六日から九月上旬までの約一週間。それを受けての九月一日、家康の江戸発向……」
ここまでいったところで、秦野裁判長は数え上げた際に折り曲げた指を元に戻しながらつづけました。
「関ヶ原に放火してまわったのが藤堂高虎だったという事実も、あとで大きな意味を持つ。九月二日に吉継が関ヶ原の藤川台に布陣した理由、九月十五日早朝の東軍勢関ヶ原布陣のナゾ、十四日中に兄の京極高次が籠城する大津城救援のため琵琶湖湖畔まで進軍したはずの弟高知が、十五日未明、藤川台の吉継の陣地の真ん前に戻っていた事実もまた、取り立てて吹聴しておかなければならん」
「それらが、今回、踏まえるべき事実です」
「踏まえるべき事実か、なるほどな。しかし、ここからはだな、捜査会議風にブレーンストーミング方式でいこう。思いつくことは何でもいい合って、最後に時系列的に整理してカチッとまとめればいい。そうすればきっとよいまとめができるはずだ」
「では、家康がなぜ決戦の場が関ヶ原と知ったのか、その問題からいきましょうか。なぜだと思いますか」
「捜査員のノウハウとして、あらかじめヒントになる知識が必要なんだが、日本史の考証に当て嵌めると、待ち伏せ誘導作戦というような一つのパターン認識が生じてくる。その原型となったのが木曾義仲の倶利伽羅峠の大勝利だな。検察官もよく知っていることだろうから、わしに代わって説明してくれんか」
「わかりました」
長井検事は倶利伽羅峠の合戦について次のように論述しました。
捜査の基本が現場を踏むこと、初動捜査をしっかりやる、それに尽きるのだが、日本史の考証では「初動捜査」は不可能なので、私は「地形こそ第一級史料」という考えを貫いてきた。かつて倶利伽羅峠を越えて越中富山に入ったときのことだが、想像もしない事実に出くわして目を瞠らされたことがあった。平家の大軍が人馬もろ共に転落して折り重なるように圧死して谷を埋め尽くしたというが、その地獄谷はどうかというと断崖などはどこにもなく、急なことは急だが頭上を覆うほどに樹木が生えていて、ここのどこからどうしたら谷底に落ちるのかとわが目を疑った。首を傾げながらいつまでも呆然としているほかなかった。斜面は急でも木に引っかかって谷に落ちることはないだろうし、所詮は軍記もの、興味本位に誇張して書いたのだろう、そのように鼻白む一方で、すると、どうして平家の大軍が呆気なく全滅したのか、あれはつくり話だったのかと思ったが、それだけは確かな事実だ。いつまで考え込んでいてもしようがないので、新たな疑問に苛まれながら歩いて行くと、あちこちで斜面が崩れて土がむき出しになった場所が見えてきた。手で土に触るとぼそぼその粒状で、花崗岩が風化したものだとわかった。今年の夏の豪雨で崩れた広島市宇佐南区、宇佐北区の土が「まさ土」といって同じ土である。平家方の人馬が数百ミリという雨量の役割を果たしたと考えるとわかりやすい。
よくよく考えると、『源平盛衰記』などの戦記ものには人馬のみならず樹木も一緒に転げ落ちたと書いてある。人馬を雪崩と考えれば、あの土では樹木は根とともにそれこそ根こそぎ持っていかれて、ますます被害を大きくして、源平盛衰記が述べるあの惨劇になるではないか。
そのときの教訓から私は「結果は目的の法則」を思いついた。歴史は結果という事実の集積だから、伝えられる出来事のほとんどがこうしよう、ああしてやろう、そういう目的意識で現実に挑んだ出発点を持つ。だから、義仲は目的を勝つことに置いて、しからばどうやったら勝てるか、と考えたに違いない。そして、義仲に勝算を抱かせたのが、花崗岩が風化しきってくずぐずになった、あの赤茶けた土くれ「まさ土」なのだとわかった。
書物で読むとあり得ないように思われることでも、正しい判断を下すのに必要な事実を揃えれば、『源平盛衰記』の記述は少しも大袈裟ではなく、むしろ正確無比であるとわかる。
しからば正しい判断を下すのに必要な事実とは何か。
どうしたら、そういう粒ぞろいの事実を集められるのだろうか。
倶利伽羅峠の合戦でいえば、花崗岩が風化してぐずぐずになった赤茶けた土くれである。これを知ると知らないでは判断がまるで違ってしまう。踏まえるべき事実を知る者と知らない者の差は歴然としてくる。
長井検事が論述し終えると、秦野裁判長がいいました。
「次に九頭竜川の合戦について解説してもらおうか。くわしいことは後でたっぷりわしが解説するつもりだから、ここでは簡単でいい」
「では」
長井検事は秦野裁判長の求めに応じて説明しました。
「一向一揆によって、加賀国は『百姓の持ちたる国』といわれたように、一向宗寺院加賀三ヵ寺といわれた本泉寺蓮悟(蓮如の七男、養父の蓮乗は二男)、松岡寺蓮綱(蓮如の三男)、光教寺蓮誓(蓮如の四男)がリーダーになって、足利幕府の公許を得て租税を徴収して経営に当たったわけです。ただし、一向宗も決して一枚岩ではなく、加賀一向一揆の信徒が吉崎御坊に群参するのを蓮如が禁止しても群参をやめませんでしたし、蓮如の死後、跡を継いだ実如の一揆禁止令にも従いませんでした。それどころか越前の藤島超勝寺、和田本覚寺と組み、三十万の一向一揆を組織して九頭竜川右岸に集結しました。これを迎え撃ったのが、朝倉宗滴(教景)の一万一千騎」
「一万一千だが、足軽ではなく、すべて騎馬兵だったわけだな」
「そうです。そこが肝腎な点です。朝倉宗滴は一万一千の騎馬兵を率いて九頭竜川を渡渉してほとんどが歩兵の三十万一向一揆軍を蹄にかけて蹴散らし、流れに沈めて壊滅的打撃を与えました。生きて加賀国に逃げて帰れたのは十万人しかいなかったといわれています」
「三十万は誇張だと思うが、仮に三十万が三万で、生きて帰ったのが一万といい換えても、大変な殺戮だ。槍刀ではそれほどの死者は出せない。刃が欠けてぼろぼろになるだろうし、槍にしてからが血糊で柄が滑って使えなくなってしまう。重戦車並みの騎馬で蹴散らし、九頭竜川に追い落として溺死させたから二十万もの死者が出たわけだよ。倶利伽羅峠の地獄谷が九頭竜川、風化してぼそぼそになった土を騎馬兵とみなして重ね合わせるとだな、パターンが見えてくる。戦場となったあたりには大小双子の中州があったそうだから騎馬で渡るにはまさに好都合だった」
「朝倉宗滴はそこに着眼して、三十万の渡河を阻み、みずからの渡渉に利用しました。九頭竜川の急流が朝倉の城壁となり、一向一揆の墓場となったのです」
「似たようなことが二度重なると法則性を持ってくる。気づくだけの頭があるかどうかだが、時系列的に考えて事件と結果にほとんど時間差はなきに等しいから、たまたま戦場の地形を利用することを思いついたのだろうが、桶狭間合戦は、倶利伽羅峠の合戦、九頭竜川の合戦を参考にして、十年以上も前から田楽狭間の一本道に着眼、過去二度の遭遇戦を待ち伏せ戦に置き換えた」
「現場を踏むといやでも信長の作戦が見えてきますものね。信長が待ち伏せの場に選んだ田楽狭間の一本道は、今日、国道一号線になり、足抜きの悪い深田はことごとく町並みに姿を変えて当時の面影は見る影もありませんが、地形は変わっておりませんから」
「待ち伏せという判断の根拠は信長が鳴海に城を築くのと同時に清洲城下の川で合戦の練習を始めた事実だな。信長が十七、八歳のときのことだから、かなり前からのことになる」
「大高城は古くからあったわけですが、鳴海には城がなかったわけです。敵が沓掛城から西上する場合、古くからある京鎌倉往還に進軍されたら、田楽狭間を通りませんからね」
「鳴海城は敵を田楽狭間に誘いこむ囮だったのだが、城主の山口父子が今川に鞍替えしてしまったため、囮に使えなくなってしまった。そのために田楽狭間の一本道の出口に当たる場所に中島砦を築いて信長自身が入って囮になることになった。しかし、後方を鳴海城に脅かされるので、善照寺砦と丹下砦を築いて牽制したわけだ。大高城も今川の手に落ちていたから、こちらにも丸根と鷲津の砦を築いた」
「待ち伏せパターンとしては出色のスケールの大きさがありました」
「NHKの衛星放送の番組で地元出身の漫画家が『桶狭間のことはぼくが世界一くわしい』などと大見得を切っておったが、何一つ理解しておらん。驚くと同時にあきれたものだったが、しかし、桶狭間のことはそれぐらいでいいだろう」
桶狭間合戦については、いつかもう一度やり直すつもりなのでしょう。秦野裁判長があっさり素通りを宣言して、長井検事もあらかじめ承知していたように素直に話題を転じました。
「武田方と徳川・織田連合軍のどちらが待ち伏せたか、という議論はあると思いますが、待ち伏せのパターンとしては桶狭間の合戦のほかに長篠合戦があります。長篠合戦と呼ばれますが、決戦の場は設楽ヶ原です。武田勝頼の軍勢一万五千に包囲された長篠城の救援にきた徳川・織田連合軍でありながら、山を隔てた設楽ヶ原に決戦の場をもうけた理由は、武田軍団の戦法が原因です。信玄以来、まず騎馬兵が敵陣を蹴散らしてから槍隊が攻め込んで相手を突き崩す戦い方で武田軍団は勝利を重ねてきました。設楽ヶ原こそはまさにその戦法に打ってつけでしたから、勝頼は一万五千対三万という劣勢にありながら設楽ヶ原を決戦の場とする信長の誘いにまんまと乗ってしまったわけです」
「武田軍団の戦法を利用して決戦の場を決めるからには、信長には対策ができているわけだな」
「敵前に塹壕を数列にわたって掘り、なおかつ馬防柵を結いまわして、武田方の騎馬兵が味方のいる場所までたどりつけない工夫をしました。そのうえで、鉄砲隊を三段に配置し、三交替で射撃することで連射を可能にしました。有名な話ですから、結末は説明するまでもないと思います」
「桶狭間の合戦は別系統のパターンを併用した節があるが、そこまで言及すると時間を費やすことになるから省く。が、プロファイリング的には待ち受けというか、待ち伏せとしては長篠合戦があり、関ヶ原合戦とつづいてくるわけだ。時系列的にはどうかというと、関ヶ原合戦の場合はちょっと複雑なんだな」
「三成は二方面作戦として大垣城、関ヶ原という二つのケースをあらかじめ考えていた節がありますからね」
「それを承知で、家康は対策を講じた。どちらにしても、大津城の京極高次が毛利輝元を大坂城に釘付けにしていたから、いずれの場合でも家康が優位にあったのは間違いない。関ヶ原しか見ない従来の関ヶ原合戦説は西軍優位を吹聴しているが、とんでもない虫の眼論というほかないんだ。家康は徹頭徹尾優位を保ちながら三成を誘導していたんだからよ」
「西軍が大垣城に集結を開始した時点で、決戦の場は大垣城か関ヶ原かに絞られました」
「三成の失敗というか、最大の敗因は、家康の所在を江戸と勘違いしたためにまごまごともたついて、二者択一の決定権を家康に奪われたことだ。藤堂高虎らが関ヶ原方面に出没して放火を繰り返したため、三成は関ヶ原もあり得ると考えて、どちらかというと次善の策としてきた候補の場所に塹壕を掘り、馬防柵の材料や五門の大砲を運び込む騒ぎになった。関ヶ原に警戒の目を光らせていた藤堂高虎の斥候がそれを見過ごすわけがなかった。そうとわかると、家康の西上のスピードは桁違いだった。九月一日に江戸を発ち、十一日には清洲城に入っている。そうかと思うと十二日は清洲城で休養、三成はそうした動きをまったくキャッチできないまま、家康が大垣城と目と鼻の先の赤坂に到着するまで知らなかった。だからこそ十四日になって家康が赤坂岡山の本陣に入ったと知ってびっくり仰天したわけだ」
「ことごとく家康の思いのままに運びましたね」
「ここで視点を秀秋に変える必要があるな。したがって、つづきは明日。本日はこれにて閉廷」
