開廷宣言を告げると同時に、秦野裁判長が一気にまくしたてました。
「昨日、一晩、よくよく考えてみたんだが、輸出用生糸の増産は、寄り道どころか、本筋上のテーマだとわかった。ミスターXの密航は何のためかといえば、これまでは『ミスターXことジョセフ縫之助(仮名)は、浦賀へ移籍させられた森山栄之助の代わりにオランダ語通詞として長崎出島へ送り込まれてのち、密航してマカオへ行き、そこでマンハッタン号に乗り込んだ』という検察官の意見を丸呑みにして、森山栄之助に『開国するとなると、わが国としては鎖国以来の一大事、生半可な知識情報を得て、なまじ乏しい材料を共有したために談判決裂するようなことなったとしたら、相互に有益な話し合いをする機会は、二度となくなってしまうでありましょう。しからば、いかにしたら、確かな知識情報を共有するにいたるか。そのためには、幕府の職制にも、考えにも、正しい知識を持つ武家を派遣せねばなりません』といわせたわけだが、それらはあくまでも現象であって、目的ではない。しからば、目的とはいかなるものかといえば、開国の方針が決したとなれば、交易通市が始まるのは必至の流れであり、自給自足の経済を変えていくことは避けられない。漫然と開国して交易通市の場に臨むというような無責任な姿勢は、政治家なかんずく為政者には考えられないことだから、『幕府の職制にも、考えにも、正しい知識を持つ武家を派遣した』のは、こちらのことについて正確かつ詳細な情報を伝達するのはもちろんのことだろうが、交易通市ないしは幕府の財政再建のため、どのような産物を増産すべきか、ピンポイントに的を絞るための情報収集が目的だったはずなんだ。考えがそこに行き着いたとき、音吉ことオットソンの伝書鳩プロジェクトは大きな広がりを持ち、かつ、双方向の往復のパターンを持ったことになるんではないか。そこに気がついた」
「ご明察、恐れ入りました」
長井検事が感動の面持ちでいってから、次のような意見を述べました。
「一点にこだわって、虫の目で見てしまうと、全体を見失う。よく、いわれることですが、木を見て森を見ない、ともすると、そうなりがちです。偽装漂着を含めて、漂流民に関係することですから、マンハッタン号の次はマクドナルドか、それともジョン万かと、ストーリーの流れに流されがちになってしまい、生糸のことは寄り道みたいに受けとめてしまいました。今度という今度は本当に省させられました」
「ところで、わしの生家が、秦野製糸というて、今は神奈川県藤沢市高倉になっているが、かつては高座郡渋谷村高倉というところで、小規模ながら絹糸を生産しておった」
「存じ上げております」
「県央の愛甲郡愛川町に半原という土地があるんだが、非常に興味深いところで、大正十二年の関東大震災で壊滅するまで、八丁式撚糸機という木製の撚り糸機械を使って、絹縫い糸の生産で日本一の地位を築いていた。八丁式撚糸機は撚糸用につくられた直径が大きく、水流を強く受けないように細身につくられた華奢な水車と連動し、水車の回転を動力としたため、関東大震災で水車が全滅してしまったわけだ。その後も、山田朝吉という八丁式撚糸機を使った撚り糸の名人が活躍したのだが、朝吉を雇用した大貫和助の孫の嘉一がイタリアからモーターを動力源とした撚糸機械を導入して、戦後間もなく、世界で初めてテトロン・ミシン糸を実用化した。今でも、撚糸産業で栄え、四六時中、モーターの音がうなりをあげている」
「ちょっと、余談になりますが、撚糸用水車がどのようなものか、それを知りたかったら黒澤明監督の『七人の侍』を見ればわかるといわれたことがあります。侍を七人雇った村の長老の家にセットされたのが撚糸水車なのだそうです。セットといえども、本物に凝るはずの黒澤監督にしては、めずらしいチョンボだということでした」
「チョンボかどうかわからんが、映像化したときの効果をねらって、輪の直径が大きな撚糸水車を使ったのではないかな」
長井検事の意見に応答してから、秦野裁判長は次のようにいいました。
「半原の説明から入ったのは、二宮金次郎に関係する埋もれた事実を紹介するための話の枕みたいなものでね。すなわち、こういうことなんだよ。二宮金次郎が烏山藩の財政再建に取り組んでいるとき、天領だった半原村が烏山藩領に『飛び領』として組み込まれた。出稼ぎの大工になって常に他所で稼ぎ、やっとのことで食いつないできた半原村の暮らしは、年貢が天領時代の四公六民から烏山藩領の六公四民へ、一気に重くなったことにより、たちまち生計が立ち行かなくなった。目下は仮説だが、困った村人たちが、烏山藩の桜町陣屋に詰める金次郎に泣きついたとしよう。さすがの金次郎も思案に暮れた。しかし、烏山藩の問題だけに、金次郎にとっても、差し迫った問題である」
秦野裁判長はさらにつづけました。
「そういうときに、マンハッタン号の来日によって、弘化元(一八四四)年あたりからフランスを微粒子病という蚕の伝染病が襲い、フランス産生糸が全滅、イタリア産生糸が暴騰しているという情報が、幕府にもたらされた。輸出用に生糸を増産すれば、特需で莫大な利益が幕府の懐に転がり込む。しかし、桑を植えて、蚕を増やしても、座繰りと呼ばれる手仕事では製品が追いつかない。金次郎は桐生で発明されたばかりの八丁式撚糸機に目をつけて、半原大工に改良させ、女の仕事して産業化したわけだ。それが金次郎であるかどうかは資料も、口伝も、今に伝わっていないため確認はできないのだが、事実は記録になくても存在する。だれがそうしたかが判明しないだけなんだ。こうして、天領地だったときは食うのがやっとの貧乏村が、烏山藩領に組み込まれて、年貢の負担が重くなったとたんに、界隈一の裕福な村に変わった。それをやったのはだれか。あらためて考えると、烏山藩の財政再建に携わり、幕府の財政再建にも関与することになった二宮金次郎が最有力であるばかりでなく、二人目の候補そのものが存在しないとなると、答えは確定したようなものではないか。金次郎が差し迫った問題すなわち、開国と交易通市に必須の手段として輸出用生糸の増産を松平近直、阿部正弘に意見具申した。わしとしては、このような結論に到達したわけだ」
「だとすると、微粒子病の蔓延が収束し、生糸の生産が復活するまでの期間だけの特需ですから、かなり切羽詰った対策と考えられます。思い切った手を打たないと、間に合わなかったでしょうね」
「フランスの生糸が復活するまで約十年とすると、検察官がいう通りだが、実はフランスの特需が終わりかけたとき、今度はイタリアの生糸が冷害つづきで手痛い打撃を蒙った。だから、生糸特需が文久の頃まで続いたわけだ。そのために、生糸に関しては、もう一つ、山が生じた。生糸特需の延命によって生じた生糸貿易商の命運の分かれ目とでもいおうか」
「と、おっしゃいますと?」
「そのことに、今、ここで詳しく触れてしまうと、伝書鳩プロジェクトより話が先に進みすぎてしまうから、本日の公判では、輸出用生糸の増産には桑の作付け面積の拡大のみならず、製糸工程の機械化まで一貫して計画された、それも二宮金次郎によって、と、このことに言及するだけで可としよう」
「では、生糸特需の延命によって生じた生糸貿易商の命運の分かれ目に関しては、いずれ言及していただけるわけですね」
「そうせざるを得ないと思う。次回は、いよいよ、ジョン万とラナルド・マクドナルド、それにミスターX、オットソンらがどのように関係してくるか、仮説《A》の『伝書鳩プロジェクト』について、さらに考証を掘り下げてみたい。本日は、これにて、閉廷……」
仮説が仮説を呼ぶ……。
