踏まえるべき事実から見えてくる事実群(その6)
天保八年に起きた出来事群から見えてくる事実(その六)
これまでの「水越侯・跡部良弼ルート」という検討カテゴリーから、一旦、離れて、再び「加州侯・林蔵ルート」関連の出来事を公判のテーマにして審理することになりました。天保八年に起きた加州侯・林蔵ルートに関係してくる事実といえば、加州侯の死去にほかなりません。天下の誤説「天保の改革」が生まれるきっかけがこのへんにありそうなだけに、そこへどのようにして結びついて行くのか、審理の展開がどのようになっていくのか、楽しみではあります。
今回も、いつものように、長井検事による秦野裁判長の論述書代読で公判の幕が上がりました。
加州侯の死によって「加州侯の大義」は終わってしまったのか
天保八(一八三七)年三月十九日、加州侯が老中首座在任のまま急逝した。享年五十九歳であった。
「嗚呼、我が道すでに窮せり。以後、だれとともに民を安んぜんや」
二宮金次郎は加州侯の訃報に接すると、こういって嘆いた。
金次郎の言葉を因数分解すると、彼はすでに復興の実績を挙げ、継続しているさなかなのだから、加州侯がいなくなっても、現行の復興事業が廃止されてしまうことはない。だから、「以後、だれとともに」とまでいう必要はないはずである。それにもかかわらず、我が道はすでに窮したとまでいって嘆くのは「これから行われることになっていた隠れた復興事業」があるためだろう。したがって、二宮金次郎が手がけた事業を考える場合は、「天保八年の時点で行われた実績と途上の事業」と「これから行われることになっていた隠れた復興事業」の二本立てで考えなければならないわけである。
そこへいくと林蔵の嘆きはストレートな意味しか持たない。
「我が輩、また力を致すべきなし」
亡き島津重豪を動かし、家斉夫人であり重豪の娘の寔子をその気にさせて、家斉に将軍職を家慶に譲るように働きかけさせ、さらに水戸藩に接近し、藤田東湖を介して斉昭からも家斉を説かせた。その甲斐あって家斉から家慶へ政権の移行が実現したばかりである。林蔵は何のために水戸藩専従になったのか、わからなくなってしまった。加州侯の死によって、林蔵は二階に上がったところで梯子をはずされたようなものである。
そのとき、林蔵が専従となった水戸藩では、どのようなことが起きていたかというと、藤田彪(東湖)が水戸斉昭を諌める目的で引用した川路聖謨の発言からうかがい知ることができる。
「加州身まかりし後は有志の説も行われず、相公の御説は国家の大議にしあれば、加州いませしとても容易に行ひがたかるべし、況んや加州殿既に黄泉の客となりては兎角の論にも及ぶまじ」
この引用が行われたのは、大塩の乱の直後の三月二十五日であった。鈴木暎一著『藤田東湖』(吉川弘文館)は次のように記す。
《斉昭は、三月二十五日、東湖に向かい、「このころの気候といひ、また浪華騒擾のこと抔を思へば片時も黙止がたし、よって、明日、不時登城して老中どもを残らず呼び、十分に国家の事を論じ、倹素に返し、中興一新の説をのべむと思ふはいかが」と尋ねた。東湖が、幕府に人を得ない今、敢行することは無意味なばかりか、一身上の支障にでもなれば容易ならず、と押し止めければ、幕吏川路聖謨(勘定吟味役)とは親交ある由、事情説明に訪問せよ、とのこと》
大塩平八郎の乱の影響もさることながら、「幕府に人を得ない今」だけに、加州侯を失ったことで幕閣と幕臣に与えたショックの大きさが半端ではなかったことがわかる。
特筆すべきは林蔵が受けた打撃の大きさである。金次郎がいうのは「だれとともに」だが、林蔵の場合は「だれのために」である。林蔵は加州侯の特命を受けた隠密だからこそ、将軍の交代に関係するほどの重要な任務を帯びることができた。加州侯の大義のために働く栄誉とやり甲斐は、その人の特別な付託があったから得られたのだ。加州侯が亡くなったら、林蔵はごく普通の隠密である。百姓を出自とする身分の低い隠密で、お庭番宗家でもないから、村垣定行や明楽茂村のように勘定奉行に取り立てられることもない。晩年の林蔵はそれなりに裕福で、江川坦庵、斉藤弥九郎、藤田東湖、川路聖謨らと親交を持ったが、これといった活躍の場は持たなかった。したがって、「加州侯・林蔵ルート」の動きはここに完全に消滅をみたのであった。
しからば、加州侯の大義も消滅してしまったのだろうか。
決して、そのようなことはなかった。水越侯・跡部良弼ルートが一時的に代替したため、当時の幕臣を含め、今日のわれわれが判断を狂わせただけなのである。
水野忠邦の「天保の改革」は、結局、改革の詐称にすぎなかった
これまでの水越侯の猟官ぶりを考えたら、彼が中野石翁や「三佞人」に取って代わったとしても、ご政道が改まると考える者などいなかったであろう。加州侯と林蔵の働きで、天保八(一八三七)年、ようやく将軍に就任した家慶ではあったが、頼みの加州侯に先立たれ、「大義」の推進役二宮金次郎、間宮林蔵との接触も絶たれてしまった。その隙間に割り込んだのが、「水越侯・跡部良弼プラス鳥居耀蔵ルート」であった。
家慶の不幸は、水越侯が老中首座を視野に置く地位にいたことであろうか。加州侯の死期をにらみ、水越侯はこれまで相談役としてエスコートしてきた家慶を裏切る恰好で大御所家斉にすり寄った。将軍が隠居すると三の丸に入るのが決まりだが、焼失した西の丸が再建されると、低地にあるため湿気の多い三の丸
を忌避して西の丸に移ると我儘をいい出した。西の丸には将軍継嗣になった家定(家祥改め)が入るはずだったが、そのために三の丸に入らねばならなくなった。御政道とは関係ないそんなことのためにばかり、水越侯は熱心で、以後、西の丸を向いて、大御所家斉の意向を本丸の将軍家慶に取り次いだ。家慶は将軍親政を復活させる意気込みで、天保八年九月二日、将軍を宣下したのだが、煮え湯を呑む思いで次々と大御所家斉の意向を取り次ぐ水越侯に「そうせい」「さように致せ」と答えつづけた。しかし、何食わぬ顔で備後福山藩主阿部伊勢守正弘を要職に就け、飛び級的な抜擢で出世の階段を駆け上がらせて、水越侯一派を追放する時期を虎視眈々と待ち受けたのであった。
阿部正弘の尋常ならざる出世ぶりと、それを後押しする家慶の気持ちについては次回の公判で言及するが、ここで、困ったことが起きた。最初に明かしてしまうと、加州侯が「大義の継承者」として指名し、準備してきた阿部正弘は年齢が若く、すなわちスタートがそれだけ遅れたため、どんなに段階を飛ばしても二宮金次郎を遊ばせておく期間が比例して長くなってしまうのである。
加州侯の大義を継承する意気込みの家慶としては、一刻も早く改革を進めたいのだが、大御所政治が壁になって、金次郎と接触することすらできない。とうとう痺れを切らす感じで、天保十二(一八四一)年五月十五日、家慶は幕府の名において、政治を刷新し、享保・寛政の制に則ることを有司に諭告し、改革に着手した。
しかし、水越侯が発する法令は倹約励行・奢侈厳禁をいうばかりで、町民の楽しみを奪い、商いを阻害する一方で、時の南町奉行矢部駿河守定謙、北町奉行遠山左衛門尉景元が真っ向から取り締まりの方針に反発する事態となった。他方では「三方領地替」に反対する庄内藩の直訴、高島秋帆の徳丸原演練にからむ冤罪事件、印旛沼干拓事業からの二宮金次郎降板、オランダからの蒸気機関車買い付けに失敗するなど、水越侯がやることは何一つうまくいかないだけでなく、腹心の鳥居耀蔵が金座役人から三千両の賄賂を取る事件などがからみ、自滅する恰好で失脚してしまう。
詳しく書くととてつもなく長くなってしまうので、ごく簡単にいうと、水越侯は改革と銘打ったものの改革に値する成果は何一つなかったのだから、われわれとしては水野忠邦が進めたいわゆる「天保の改革」は改革の詐称と断ぜざるを得ないのである。
ところで。
水越侯が試みたことのうちで、格段に重要な意味を持つのが、印旛沼干拓事業からの二宮金次郎降板、オランダから蒸気機関車を買い付けるのに失敗したことの二件である。もちろん、どちらも家慶を痛く失望させ、水越侯処罰の強い動機となった。家慶が蒸気機関車を輸入して鉄道を敷く考えだったことは、これまで十分に触れたから、あらためて説明する必要はないだろう。ただし、印旛沼干拓事業から二宮金次郎が降板させられたことは、これから詳述していく「加州侯の大義」の展開に大きく関わることだけに、今から念頭にしっかりと焼き付けておきたいものである。
長井検事が代読を終えると、秦野裁判長が陪審員席と傍聴席に向かって呼びかけました。
「これが二宮金次郎の果たした仕事を巧みに隠す原因、すなわち《消滅》の一員であります。天保の改革の目玉とされた印旛沼干拓の計画を立てるため、ようやく金次郎は幕臣に取り立てられたわけですが、結果を早く出したい水越侯の目には役に立たないものとしか映らなかった。なぜなら、金次郎が立てた計画は普請に駆り出される農民が疲弊しないように隅々まで配慮されており、加えて恩恵が生じる仕掛けが随所にちりばめられたものであったために、長い年月を要したためであった。そのために金次郎を忌避して、改革からはずす過ちを犯し、代わりに鳥居耀蔵を起用して、失敗に失敗の上塗りをしてしまった。つまり、水野忠邦の天保の改革は教科書にも、年表にも、必ず掲載されるわけですが、実体的真実にない錯覚とも、幻影とも、ほかにどのようにもいいようのない出来事なんです」
秦野裁判長の口調は、いつになく哀調を帯びているようです。長井検事はそれを感じ取って、黙ってうつむくばかりでした。
「先のこともありますから、あまり多くを語りませんが、ひとことだけ付け加えておきます。加州侯の大義は加州侯の死によって終わったように錯覚されがちなんですが、実は加州侯が亡くなってから実に多く有意義な試みと成果が残されたという事実、このことだけは忘れないでいただきたい。陪審員ならびに傍聴人諸兄姉に衷心よりお願いして、本日はこれで閉廷します」
