キーワード「勃興」と「消滅」を再現させるための踏まえるべき事実、見えてくる事実の実例(その14)


踏まえるべき事実から見えてくる事実群(その7)

 

天保八年に起きた出来事群から見えてくる事実(その七)

 

 今回の公判で、水野忠邦が行ったとされる「天保の改革」が、実体的真実に裏打ちされない幻影か錯覚の類だということが解き明かされました。それでいながら、「加州侯の改革は、加州侯が亡くなってからのほうが、多く有意義な試みと成果が残された」という新しい解釈が述べられました。一見、矛盾していて、事実に反するように受け取れそうですが、どのような検証がこれから行われるのでしょうか。

 今回も、いつものように、長井検事による秦野裁判長の論述書代読で公判の幕が上がります。

 

死期を悟った加州侯が打った起死回生の一手

 

 加州侯の大義が「内政面は金次郎、外交面は林蔵」を当面の主役としたという理解の仕方があることを前に示唆したわけであるが、そうだとすると消滅した加州侯・林蔵ルートは外交面のみのことになるから、一時的に代替した水越侯・跡部良弼ルートから本格的にバトンタッチする主役が、この時点ですでにどこかに存在しなければならない。

 ここで「結果が目的の法則」を物差しに用いて、該当するカテゴリーを物色すると、「天保七年十二月二十五日、阿部伊勢守正弘、家督を相続して福山藩主になり、将軍家慶にお目見する」という記事が目盛りに合致する。

 加州侯の大義は希代の経世家二宮金次郎を見出したことを発端として、両刃の剣である宿命を背負って始まった。家斉と水野忠成、中野石翁の一味を野放しにしたままでは利敵行為になりかねないし、さりとて当時は一味に代わる勢力など望むべくもなかった。しかしながら、長い闘いになるであろうと覚悟して、加州侯は後継者の準備を並行して進めた。

 改革の表の顔は金次郎の報徳仕法である。では、裏の顔は何かといえば、今は加州侯と林蔵だが、万一のときのための候補として白羽の矢が立ったのが福山藩阿部伊勢守家の六男剛蔵であった。

 どうして六男などという御家騒動を招きかねない選択肢に落ち着いたのかというと、家斉派を反面教師として人物本位の人選をこころがけたためで、加州侯自身が健康に問題を抱えており、子を相次いで失っていたことも関係していた。加州侯の大義の最初の賛同者で老中の阿部備中守正精の人選だったから、加州侯も賛同した。すると、正精は西の丸下に与えられていた屋敷を返上して神田小川町の屋敷に移ってしまった。

 阿部正精は加州侯に答えた。

 ――長く苦しい闘いになるのならば、途上で倒れる前に将来性のある剛蔵に早いうちから道をつけておいたほうが、加州侯の大義のためになろう。

 正精は隠居に先立って、病弱の嫡子正粋を廃嫡し、三男の正寧を嗣子に直していた。いずれ折を見て、正寧も隠居させて、剛蔵正弘に家督を継がせるという。

あれから、十年……。

剛蔵を名乗った正弘は世子となり、その英邁ぶりを伝える逸話が、いくつとなく語られきた。そして、家督を相続して、藩主となった。しかしながら、舌癌を患う加州侯の命数は残り一年を切った……。

 阿部伊勢守正弘が幕府奏者番に就任するのは、天保九(一八三八)年九月一日のことであるが、それに先立ち、猟官運動に走ろうとする主君を側近の老臣関平治衛門が厳しく諌めてやめさせている。その必要がないためであろう。

 しからば、なぜ、猟官運動を必要としないのか。

 死せる孔明生ける仲達を走らすではないが、死期を悟った加州侯が家慶に願って、将来、正弘を老中首座に据えて外交面の役割を担わせること、さらには金次郎の後ろ盾の役割を担わせる約束を取りつけたためではなかったか。奏者番は定員が二十人前後だが、『明良帯録』(めいりょうたいろく)が「言語怜悧英邁之仁にあらざれば堪へず」と記すように、その中から老中への第一関門とされる寺社奉行に昇進できるのは四人に限られた。それなのに正弘は猟官運動を一切せず、二十一歳の若さで天保十一(一八四〇)年五月十九日、奏者番に寺社奉行加役兼帯、同年十一月八日、寺社奉行兼帯となり、天保十四(一八四三)年には本来なら段階を踏むべき大坂城代、京都市所司代を飛び越し、二十四歳でいきなり老中に就任してしまう。さらに、天保十五(一八四四)年七月二十二日、勝手掛拝命、弘化二(一八四五)年には遂に水越侯失脚、鳥居耀蔵追放を受けて老中首座に就任するといった具合に、奏者番就任から老中首座拝命まで足掛けわずか七年間という異例のスピード出世ぶりであった。

 阿部正弘が、いかに「超絶的な大々天才」であったとしても、あるいは幕閣内を巧みに泳ぎまわるすべに長けていたとしても、幕府の職制ではあり得ない出世スピードである。加州侯が生前のうちに正弘になり代わって猟官運動を行ったとみなさないと、到底、納得できることではない。加えて、加州侯の死後に起きた正弘の出世ミラクルであるから、将軍家慶の正弘の老中首座就任に寄せる「異常な熱意」が浮き彫りになってくる。

 

加州侯の大義の継承を視野に置いた藩主交代

 

 時系列的には順序が逆になるが、福山藩阿部家が正弘家督をどのようにして実現させたのかというと、阿部備中守正精が老中を辞任したのが文政六(一八二三)年十月十一日のことで、このとき、長子正粋が廃嫡され、三男正寧が嗣子となった。文政九(一八二六)年六月二十日、正精が五十三歳で没すると、正寧が家督を相続して藩主になった。このとき、正弘は八歳で剛蔵を名乗っていた。

 正精の死後五年を経た天保二(一八三一)年、阿部伊勢守正寧は幕府奏者番を拝命したが、天保七(一八三六)年六月になると、剛蔵に正弘と名乗らせて養嗣子とし、健康上の理由を申し立てて辞職、十二月二十五日に至って「不争斎」を号して隠居し正弘に跡を継がせた。正精の老中辞任から正弘の家督相続まで十三年間、その間に嗣子と藩主の交替が以上のようにして行われたわけで、下手をすれば御家騒動になりかねないような藩主交代劇である。

 注目すべきは正寧の健康問題で、隠居したとき二十八歳、子がなかったため正弘を養嗣子にしたわけだが、隠居後の天保十年に正教、嘉永元年に三男正方を得ており、明治三年まで生きて、正弘の死後、正教を正弘の養嗣子に入れて八代目の藩主に就けている。

 この極めて不自然な家督相続から推測されるのが、最初から正寧は正弘へのつなぎ役といい含められていたのではないかということである。それを裏付けるように正寧は藩政に積極的でなく、奏者番も五年務めただけで辞任してしまった。隠居後は文筆にいそしんだという。正弘の死後、長男が八代目藩主、三男が九代目藩主となったのだから、円満裏に藩主交代劇が行われたのだろう。

 正寧から正弘へのバトンタッチが行われた天保七年暮れは、加州侯が亡くなる天保八年三月十九日のわずか四ヵ月弱前であった。この事実が物語るのは、正寧から正弘への藩主交代は福山藩阿部家のみの都合ではなく、「加州侯の大義」をしっかりと視野に置いて行われたということである。生前の正精から正寧にくれぐれも違背することのないよういい含められたのであろう。そして、正寧は正弘に家督を譲る際、わが子正教を養嗣子として迎え、八代目藩主に就ける約束を取りつけた。だから、「不争斎」を号したのである。

          

 長井検事が論述書を代読し終わると、秦野裁判長がいいました。

「加州侯の大義といわれるくらいだから、常識で考えたら加州侯が亡くなったら終わってしまうのだが、ところがどっこい、こんなことまで仕組まれていた。ここに加州侯の大義が尋常ならざる改革だという暗示が感じられる。しからば、加州侯の大義はいかなるものだったのか、ようやく二宮金次郎の本格的出番がまわってきた」

 長井検事が少し興奮ぎみに応じました。

「加州侯の大義の外交面と政局面の主人公が間宮林蔵で、内政面の主人公が二宮金次郎だというご意見でしたが、林蔵だけではらはらするようなドラマチックな出来事の連続でしたから、わくわくしてきますね」

「ところが、そういう期待のされ方をされると、ちと困るんだな。はらはらどきどきは林蔵の弟子江川坦庵につながる斉藤弥九郎、中居屋重兵衛らに主役が交代する外交面の後半部分で、金次郎の場合は将軍家慶と一体化するかたちで加州侯の大義を一段と加速させていって、そこでペリー来航を迎えるという展開が待つ、と、その程度に理解してもらうとよい」

「その程度とおっしゃいますが、破天荒というか、大変なことですよ」

「どっちにしても、二宮金次郎の本当の姿をだれにでもよくわかるように再現するのが先だな。本日はこれにて閉廷」

 秦野裁判長は次回の公判に期待する口ぶりで閉廷を宣言しました


(つづく)




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