真相に迫る近似値を解析する九つのセンスとノウハウ
これまでの日本史は「俺が、俺が」と個人が勝手に解釈して書き散らかす時代でした。
100パーセント真実といえる事実など時のかなたの当時以外には存在し得ないという大原則に照らすとき、いつまでもそれでよいのかという思いに駆られます。真相に迫る近似値を掘り起こすためにも方法論を用いて確かな道筋を模索し、一致協力してかかる時代の幕開けをもたらす必要があるのではないでしょうか。
そこで、次の九つのセンスとノウハウを駆使して解析する試みを提案します。


疑問感受性
 (解析の切り口を発見するのに不可欠の疑問を感じ取るセンス)


見識物差し
 (歴史上の人物の見識レベルで判断する洞察力)

モンタージュ法
 (踏まえるべき事実群から法則性を持つパターンを選り分けてクロス分析するセンス)

因数分解解析法
 (発言や手紙文を要素別に分解して思いもよらない背景を描き出すノウハウ)

セグメント抽出法
 (踏まえるべき事実をセグメントして多重解析により思いもよらない背景を描き出すノウハウ)

パターン物差し
 (パターンを比較して潜在状況を読み切るセンス)

時系列物差し
 (踏まえるべき事実を時系列的に相関させて一連の動きを筋道立てて掘り起こすセンス)

仮説検証法
 (方程式は未知数Xを含む等式ですが、仮説Xを用いて真相の近似値を導く手段です。ただし、仮説Xを立てないと解析が一歩も進まないという場合に限って用いる最後の手段です)

ジグソーパズル式多重モンタージュ
 (最後に仮説検証法も含めて八つのコツから導かれた解析結果を矛盾なく組み合わせて真相に迫る近似相を再構築します)



習うより慣れろ
 本講座のモットーです。
説明するよりも実例を用いたほうがわかりが早いと思います。これから更新するたびに実例を展開して解析法を演習していきます。
本講座と出会ったのがきっかけで自力で解析できるようになり最高の知的エンターテイメントを手に入れていただきたいと願っております。


記録にない事実を掘り起こす
 これが真実だといいきれる事実はない、というのが本講座の基本認識です。
したがって真相を解明するというより真相の近似値を解析するのが本講座の目的ということになります。
記録が少なく既成の解釈や推測まじりの史料から得た事実だけでは解析の精度が低くなりがちなので、極力、埋もれた事実の発掘に努め、解析の精度を高めていく必要があります。
もう、これ以上は不可能というところまで、本講座に終わりはありません。 

前置きはそれぐらいにして、どのようにして埋もれた事実を発掘していくのか、実例を用いて説明していきたいと思います。


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絶頂期の信長が五年を出でずして破滅するという衝撃的予言


 足利将軍義昭が「父とも思う」とまでいって信長に感謝しておりながら、やがて「反信長」に舵を切ってからの後半生を策謀に明け暮れたことは広く知られた事実である。元亀四(一五七三)年七月十八日、信長は自分に叛旗を翻した義昭を真木島で破ると秀吉に警固させて河内国若江城へ追放した。そして、安国寺恵瓊天正元(一五七三)年十二月二十日付の山県越前守宛書簡が暗闇から牛のようにぬっと現れる。

 「信長の代、五年、三年は持たるべく候。来年あたりは、公家などに成らるべしと見及び候。左様て後、高ころびにあふのけにころばれ候ずると見申し候。藤吉郎さりとてはの者にて候」 

 織田軍が当たる相手のいない勢いを見せた当時としては極めて唐突な感じで恵瓊の手紙は時の政権の倒壊と信長の死を暗示している。現実と予告との乖離があまりにも大きすぎることに驚く以上に、「なぜ、そこに秀吉の名が出たのか」という疑念のほうがはるかに劇的である。

 義昭の若江城追放から半年後になっていきなり現れた安国寺恵瓊なる僧の書簡であるからには、信長破滅の予言と秀吉賛美の文節は守秘義務の観点から絶対一つにしてはいけないカテゴリーである。恵瓊が犯した致命的なエラーであると同時に秀吉が義昭に何かを語り、義昭が恵瓊に何かの出所を明かした一連の流れが天の網を思わせる。加えて恵瓊の書簡が遠く時代を超えて日の目を見たということにも運命的なものを感じざるを得ない。それがあったがために本能寺事件に関与した秀吉の摘発に向けて一気に視界が開けたのだから……。 

 さて。河内国若江城へ追放された義昭が毛利氏を頼って西下していったのは天正四年三月のことである。恵瓊の手紙がもっと後のものだったら、秀吉に対する嫌疑に今ほど確信は持てなかったと思う。しかし、恵瓊の手紙が発せられたのは義昭の若江城追放から半年後のことであった。ここに隠された重大な事実があるのである。

 秀吉と恵瓊の仲が深まるのはずっとあとのことだ。それなのに義昭の若江城追放から半年後に「藤吉郎さりとてはの者にて候」と恵瓊が言及するのは陰謀好きの義昭が河内国若江城に落ち着くと同時に毛利氏に働きかけを行った。そのとき、打ち合わせに当たったのが恵瓊で、義昭に面と向かって「毛利へはこないで欲しい」と忌避している。

 疑問感受性というものがあるとすると、その定義は「疑問を抱くべきときに正しく知覚できる形而上的感覚」ということになろうか。私は秀吉の大成を早くから見抜いた恵瓊の慧眼を裏づける証拠として「天正元(一五七三)年十二月二十日付の手紙」を引用した文献から孫引きしているわけであるが、「恵瓊の慧眼を裏づける証拠」などとしてしまったのではせっかくの疑問感受性が泣いてしまう。 

 ここで恵瓊の手紙を因数分解してみよう。まず背景に照らしていうと、秀吉が河内国若江城へ追放された義昭を送って間もなく、すなわち、秀吉が恵瓊と接点を持った直後の書簡だから、次のように因数分解できる。

「来年あたりは、公家などに成らるべしと見及び候」
「左様て後、高ころびにあふのけにころばれ候ずると見申し候」
「信長の代、五年三年は持たるべく候」
「藤吉郎さりとてはの者にて候」

 部分的に入れ替えを行ったが、四行の行間に何が見えるだろうか。信長が来年あたり公家になるという直近の予測が極めて正確であることから考えて、織田家内部からの情報である可能性が高い。すると、織田政権の倒壊という大胆な予測も時間的な隔たりの大きさを無視すれば本能寺の変として実現をみるわけであり、これまた織田家内部の情報を思わせる。信長の命数まで三年から五年を出ないうちにと具体的に読み切ってもいる。以上の予言を恵瓊に語ることができたのは義昭と秀吉であり、恵瓊は情報源の信憑性を高めるために「羽柴秀吉」の名を出したのであろう。

 「こう書けば信長を倒すのはだれかわかるだろう。それも三年か五年以内のことである」

 内容が重大なだけに恵瓊はだれかに明かさずにはいられなかったのではないだろうか。若江城に義昭が監禁されてからまだ半年、義昭が毛利を頼って西下する四年も前の出来事だったから、恵瓊としては半信半疑でつい「藤吉郎はさりとての者だから、ひょっとするとひょっとするかも」ぐらいの軽い気持ちで手紙に書いてしまったのかもしれない。毛利が義昭を受け容れる気になったとき、初めて「あれはまずかった」と思い出すような性質の手紙だった。
 
 振り返ってみれば、秀吉が真木島から河内国若江城へ義昭を警固していったのは、恵瓊が書簡を出す約五カ月前の七月十八日。その五ヵ月の間に秀吉は恵瓊と交渉を持った。「藤吉郎さりとてはの者にて候」という恵瓊の評価は、当然のことながら「左様て後、高ころびにあふのけにころばれ候ずると見申し候」「信長の代、五年三年は持たるべく候」にかかっていく。
 
 それでは、事実はどのような展開を見せたのか。

 「天正二(一五七四)年三月、織田信長、弾正忠から参議に昇進し、従三位に叙せられ、公家になる。正倉院の香木『蘭奢侍』を切る」 

 年表の記事を見ればわかるように、恵瓊は信長が公家になることを書簡の中でいい当てている。信長が大納言に任ぜられてから十日後の書簡であり、それらしい言辞から判断して、未確認情報をもとにして書いたのは明らかだ。それでいながら予告の精度の高さは世間の噂など比べ物にならないレベルだし、公家になるのを予測して同時に破滅を予測するというようなことは噂としてはあり得ない。織田政権が高転び仰向けに倒れるといった可能性は、当時、犯人しか知らない事実、すなわち義昭か秀吉の胸にしか描けない事実である。しかし、義昭にその願望はあってもそれほど大きな勢力を動かす智恵も力も持たなかった。義昭からそのように聞かされても恵瓊は本気にしなかったはずである。智恵もあり、力も備えているのは、断然、秀吉のほうだ。何よりも信長の幕僚がほのめかしたこととして聞けば、画策を好む恵瓊としては飛びつかずにいられなかったであろう。 
 
 すなわち、明智光秀は衝動的に実行しただけの傀儡であり、計画的に犯行の筋立てを構築した黒幕的正犯は秀吉か義昭という埋もれた事実が浮き彫りになってくる。

(つづく)




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